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朝鮮半島と戦後補償
― 北朝鮮の「慰安婦」被害者のケースから ―
 六月七日、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と小泉首相は首脳会談を経て「日韓首脳共同声明」を発表した。声明は北朝鮮に対しては「対話と圧力」路線で、また日韓関係の構築については歴史認識の重要性は指摘したものの「過去の歴史によって前に進めないことがあってはいけない」という盧大統領の強い意思を反映した「未来志向」が強調された。「未来志向」構想がどのような流れに向かうのか疑問に思ったが、九日の衆議院本会議で盧大統領が演説を前に語った「過去の歴史問題がいかに重要かをよく知っているが、本日はこの問題を超越した話をしたい」という言葉に、「超越」とは被害者を置き去りにする流れを生み出しやしないかとの不安を払拭することはできない。この不安はこれを遡る二〇〇二年九月一七日、日朝首脳会談後に発表された「平壌宣言」でも感じたものだった。
 戦後補償問題に携わってきた人々は、日朝首脳会談が歴史を踏まえた上で朝鮮半島の南北和解と統一、東アジアの平和を展望する日朝国交正常化への画期的な第一歩になることを期待し、歴史認識の問題がどのような形で言及されるのか固唾を呑んで見守ったが、平壌宣言は日朝国交正常化交渉の最大の壁であった歴史認識の問題を不透明にしたまま、懸案の戦後補償問題について経済協力、無償援助という路線で合意した。
 これまで日朝国交正常化交渉を難航させていた基本問題とは、一九〇五年乙巳条約や一九一〇年の韓国併合条約に対する評価であり、日本政府の「条約は合法的に締結された」という立場に対して朝鮮側は「条約は無効」という立場を変えなかった。これは六五年の日韓条約においても日本政府が一九四八年八月一五日の大韓民国成立までは「有効」と主張したのに対して韓国政府は「当初から無効」を主張したように、日朝間の基本問題は日本と朝鮮半島との歴史認識問題であった。合法か否かは植民地支配か強制占領かの議論であり、同時に「補償」か「賠償」かに繋がる問題であったが、平壌宣言はこの点が不明瞭なまま「植民地支配」という文言が刻まれた。
 私は平壌宣言についてはある種の評価と期待を持っている。混迷を深める日朝関係を打開する道は日朝国交正常化を進めることだと思っているからだ。しかしその上でなお戦後補償問題の決着のつけ方には納得いかない。「慰安婦」や強制連行等に対する「補償問題」を無償資金協力、低金利の長期借款供与、人道主義的支援という「経済協力」で終わらせようというそれは、基本的には一九六五年の日韓条約で韓国と合意した経済協力方式の踏襲であり、朝鮮半島全体に対する過去の清算は経済協力という政治的清算で決着がつけられたということになる。
 私が所属するVAWW‐NETジャパンは「慰安婦被害者を疎外しない日朝国交正常化交渉を求める緊急声明」を発表し、過去の問題がこれで封印されないよう抗議声明を発表したが、長らく北朝鮮の「慰安婦」被害者の聞き取りを行い彼女たちの深く重い苦痛に接してきた私は、被害者が再び置き去りにされたという絶望感に襲われ、人間の尊厳を踏みにじった犯罪がこのような形で「解決」されるはずはないと不安を抱いた。
 歪んだ解決は「和解」を遠ざけ、次なる問題の火種になるだろうという予感は、日本人拉致事件をきっかけに日朝国交正常化交渉が以前にも増して難しくなった現実の下で的中した。
 白日の下に晒された日本人拉致事件はあまりに衝撃だった。被害者やその家族の気持ち、二十数年の奪われた時間を思うといたたまれない。このような人間の尊厳に対して行われた国家犯罪には徹底的に向き合わねばならないと思うが、その一方で日本人拉致事件により、朝鮮人強制連行や「慰安婦」の被害者の方たちの苦しみと悲しみがどんなに深く重いものであるのかを改めて思い知らされたのは私だけではあるまい。
 日本人拉致問題について「真相を究明せよ」「明確な謝罪・補償をせよ」「国家責任を明確に果たせ」という声は国連人権委員会にも訴えられ、国際世論はそれを受け入れ大きく動き出した。しかし、同じように真相究明、謝罪・補償、責任者処罰を十年以上にわたって求め続けてきた「慰安婦」問題について、日本社会は沈黙を強め、むしろ過去の問題と日本の責任を語ることにさえタブーの空気が漂い始めた。
 戦時、平時を問わず重大な人権侵害に時効はない。人権法と人道法の侵害に対していかなる効果的な救済も存在しない期間について時効は適用されない。「人道に対する罪」の「人道」とは「human」であり、「慰安婦」問題は人間に対して行われた、人間の尊厳に対して行われた犯罪である。しかし日本社会の怒りは自民族が受けた被害に結束し、同じように残忍な被害を与えた加害者でもあるということについては沈黙を強めている。私は沈黙ほど恐ろしい暴力はないと思っている。
被害者の心の闇
 九三年以来、私は五回にわたって北朝鮮に住む「慰安婦」被害女性の聞き取り調査を行ってきた。今年の四月にも一週間にわたり被害者の朴永心(パク・ヨンシム)さんの自宅やホテルで連日聞き取りを行ったが、話しているうちにみるみる蘇る記憶に、彼女はテーブルに突っ伏して長いこと動けなくなることがあった。
 六〇年近い歳月が経っているが、彼女の傷は癒されていない。連行された一七歳から八〇歳を過ぎた今日まで、時間は停止している。「十年近くも話し続けているのに、日本政府はなぜ一言も謝ってくれないのか、そのわけを教えてほしい」と問われ、私は言葉に詰まった。日本政府の姿勢や「愛国心」を叫ぶ日本社会の現状を思い浮かべると、安易に期待を抱かせるような無責任な言葉を口にすることはできなかった。
 このことは、四月末に韓国で開かれた第六回アジア連帯会議の時にも体験した。「慰安婦」被害女性の黄錦周(ファン・グムジュ)さんはチョゴリをたくし上げ日本兵に切られた腹跡を見せながら、「私は一一年もの間証言してきているのに、日本政府の態度や日本の歴史認識は何も変わらないではないか。私は『元慰安婦』と言われることに我慢できなかった。あなたたちが頑張って努力してきたことは分かるが、その上であえて言いたい。あなたたちは一体、何をしてきたのか」と訴えた。
 教科書の「慰安婦」記述は著しく後退し、民事裁判で被害者の訴えが次々に退けられていくなかで、サバイバーはますます苦痛と「恨(ハン)」を深めている。数年前から「和解」を口にする声が度々聞かれるが、被害回復なき和解などあり得ない。九四年、国連差別防止・少数者保護小委員会の特別報告者だったテオ・ファン・ボーベン氏は最終報告書(「人権と基本的自由の重大な侵害を受けた被害者の原状回復、賠償および更正を求める権利についての研究」)のなかで、被害回復は原状回復・賠償・更正・満足・再発防止保証を含むべきであると指摘しているが、このような救済措置がとられないままどうして「和解」など声高に叫ぶことができるのか。
 平壌宣言で経済協力方式が合意されたことと、被害回復に対する日本政府の責任が消滅したことと同じではない。むしろ、被害者の痛みを身をもって実感した日本であるからこそ、その責任に真摯に、そして早急に向き合わねばならない。被害者に残された時間はもう無いのだ。
一枚の写真
 日本社会に「慰安婦」問題が浮上した頃、人々は一枚の写真に大きな衝撃を受けた。それは一九四四年九月に、中国雲南省拉孟(ラモウ)で雲南遠征軍により保護され、米軍の通信隊写真班により撮影された四人の朝鮮人「慰安婦」の姿だった。裸足で汚れた服を身に纏い、呆然と立ち尽くす女性たち。右端には妊娠後期と思われる女性が苦しそうに顔を歪めて立っていた。
 この写真はワシントンのナショナル・アーカイブに所蔵されているもので、一九八〇年四月に毎日新聞社から発行された「一億人の昭和史 日本の戦史 太平洋戦争4」はこの女性たちが連れて行かれていた拉孟守備隊を特別企画として取り上げこの写真を掲載した。そこには「守備隊とともに最前線にあった慰安婦も決死の脱出行。雨季の山中を放浪した。彼女らの多くは朝鮮から連行され、中国軍収容所で敗戦を迎え、朝鮮人民解放軍に引き取られた(九月三日)」とある。
 また、一九八四年に出版された写真集「フーコン・雲南の戦い」にもこの写真は掲載された。戦時情報局広報部はこの写真に「援蒋ルート上の松山(拉孟)の村で、中国第八軍の捕虜になった四人のジャップ・ガールたち。日本兵たちは殺されたり、村から追い出された。中国兵が彼女たちを護衛している」と説明をつけているが、「ジャップ・ガール」というのは「日本人女性」という意味ではなく、日本軍の「慰安婦」にされた朝鮮人女性であることは、当時、米軍の間で読まれていた「ラウンド・アップ」という新聞記事からも確認することができる。
 このようにこの写真は「慰安婦」問題が浮上する一〇年も前に日本社会に公表されていたわけだが、被害者不在の時代、その写真は日本社会にほとんど関心を持たれることはなかった。この写真が人々に注目されるようになったのは、九〇年代になり姿の見えなかった被害者が顔を現し本名を名乗り、自らの言葉で過去の体験を告発したからである。そして、そこに写る女性の姿、表情そのものが「慰安婦とはだれであったのか」「慰安婦問題とは何か」を表象していたからである。
 人々の心を揺さぶった妊娠している「慰安婦」が、よもや見つかることになろうとは、当時、誰が想像し得ただろう。しかし、それから一〇年近い歳月を経て、写真の女性は私たちの前に姿を現した。
 二〇〇〇年一二月に東京で日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷(以下「法廷」)が開かれた。VAWW‐NETジャパンは「法廷」の主催団体の一つでもあり、北朝鮮の「慰安婦」問題に取り組む団体も被害八カ国の構成団体の一つであったことから、私は今は亡き松井やよりらと打ち合わせのため北朝鮮を訪問した。その時に初めて出会った朴永心さんがその写真の女性であることが判明したのは帰国してからのことだった。詳細はここでは省くが、それがきっかけで朴さんが写真の女性であることが朝日新聞でも報じられ、朴さんに日本国内外から大きな注目が寄せられるようになったのである。
朴永心さんの体験
 一九三九年八月、平安南道南浦市の洋品店で働いていた朴さんのところに日本人の巡査がやってきて「お金が儲かるいい仕事がある」と声をかけた。父親は日本人の地主の下で小作として働いていたが生活は苦しく、「下女奉公」に出されていた朴さんは巡査の言葉に騙されピョンヤン駅から貨車に乗せられて南京に連れて行かれ、「キンスイ楼」という日本軍の慰安所に入れられた。髪を切られ、「歌丸」と名づけられた朴さんは一九号室に閉じ込められ、来る日も来る日も日本兵の相手を強いられた。
 最初は日本兵の行為に耐えられずに抵抗したが、「言うことを聞け」と体罰部屋で拷問を受けたり日本兵に軍刀で切りつけられるなどの凄まじい暴力支配の下で、日本兵の言うなりになるしか生きる道はなかった。
 一九四二年、南方軍の要請で南京の慰安所にいた多くの「慰安婦」たちはビルマに送られていった。朴さんが乗せられた船は数百名に上る女性たちが詰め込まれた「慰安婦」輸送船で、ワシントンの公文書館に所蔵されているアメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属のアメリカ戦時情報局心理班が作成した「日本人捕虜尋問報告第四九号」(一九四四年一〇月一日)にある七〇三名の「慰安婦」輸送とその時期を同じくしており、同じ輸送船であった可能性もある。
 ビルマに連れていかれた朴さんは「若春」と名づけられ、ビルマルート上要衝の地であったラシオの「イッカク楼」という朝鮮人「慰安婦」の慰安所に入れられたが、後にビルマと中国の国境近くの中国雲南省拉孟(松山)で壮絶な戦いの果てに全滅した拉孟守備隊の最前線の慰安所に連れて行かれた。
 朴さんが入れられた慰安所は拉孟守備隊のために設置された慰安所で、その守備隊は第五六師団下、歩兵第一一三連隊の一部と野砲兵第五六連隊第三大隊などを主力とする僅か一三〇〇名の兵力で、米軍の教育を受け米式装備に身を固めた四万を超える兵力の雲南遠征軍と対峙し、百日にわたる死闘を繰り広げた部隊だった。一九四四年五月末頃から雲南遠征軍の反攻作戦が開始され、拉孟陣地に孤立した守備隊は援軍・武器・食糧の後方援助を絶たれたまま全滅への道を突き進んだのであった。
 日本軍は最前線の戦場にまで「慰安婦」を連れて行った。朴さんら「慰安婦」は砲弾と雨の降りしきる中を各陣地の日本兵にお握りを届けたり、手足を失い、アメーバー赤痢や栄養失調でもだえ苦しむ負傷兵の手当てをしなければならなかった。壕の中は地獄絵図さながらの光景だったという。しかし、弾丸の飛び交う戦場でも「慰安婦」を壕に連れ込む将校がいた。
 拉孟にいた「慰安婦」は、朝鮮人、日本人合わせて二四名だったが、生き残ったのは僅か一〇名だった。前述の写真は、最後に追い詰められた日本兵らと隠れていた横股陣地の大砲壕から逃げ出し、山を下って水無川の川岸にいたところを中国軍に発見され、山の上まで連れて行かれた時に撮影されたものだった。
 身重の朴さんは「何日も食べていなくてお腹が空いてどうしようもなく、とうもろこし畑に入ってとうもろこしを食べていた時に見つかってしまった」という。朴さんはその時に出血が始まった。写真の表情が苦しそうなのは激しい腹痛に襲われていたからだった。その後、中国軍の駐屯地に連れて行かれ、簡単な尋問を受けた後に中国人の医者に手当てを受けたが、お腹の子どもは死産だった。
 拉孟の「慰安婦」については、一九七〇年代の初めに作家の千田夏光氏が発表した「従軍慰安婦」(正・続編)に記録されているが、そこには日本兵と共に「天皇陛下万歳」と言って自決していった日本人「慰安婦」の姿が強調されている。千田は「慰安婦」について「彼女らなりの愛国心と忠義心を見た」と言い「死を遂げた兵隊も哀れだが、彼女らはさらに哀れだと思う」と述べている。一方、南方軍の高級参謀であった辻政信も「天草娘も朝鮮娘もこの陣内に取り残されていたが、最後の日、日本娘は和服に最期のお化粧をして青酸カリをあおり、十数名一団となって散り、朝鮮娘五名だけが生存者として敵軍に投降したことは傍受電報によって明らかにされた」と、著書に記している。
 日本人「慰安婦」が和服に死化粧をして青酸カリで自決したという話は私の取材では確認されず、あまりに疑問が多い。しかし、こうした記述により拉孟の「慰安婦」は「軍国美談」の一翼を担わされ、「お国のために日本兵と共に戦い自決していった彼女たちには恩給すらなく、その存在すら忘れられている。拉孟で日本兵と散った慰安婦を忘れていいのか」といった、捩れた「慰安婦記憶論」さえ飛び出すこととなった。
 「お国のために兵士と共に戦い散っていった愛国心・忠義心あふれた哀れな女性たち」と描かれる記録に、虐げられぼろ布のように扱われ捨てられた朴さんら朝鮮人「慰安婦」の姿は見えない。消された歴史に僅かに顔を残す「慰安婦」は、愛国美談として語られていたのである。
裁きと赦し
 二〇〇〇年に東京で開かれた女性国際戦犯法廷に参加した朴永心さんは、「慰安婦」制度の責任者たちに「有罪」判決が下され「重い恨が解かれたような気持ちになった」と振り返った。「やっと正義が生きていることを知ったよ」と語った韓国のサバイバーもいた。女性国際戦犯法廷はいうまでもなく民衆法廷で、判決の結果に対して何の法的執行力を持つものではない。にもかかわらず朴さんをはじめ判決に被害女性たちが涙を流して喜びをかみしめたのは、初めて自分たちが「人道に対する罪」にあたる犯罪の被害者であることが認定されたからだ。「金儲けの女たち」「慰安婦は共同便所」「商行為」といった、一部の日本人による凄まじい歴史認識の曲解と蔑視に打ちのめされ、更なる苦痛と屈辱感を強いられてきたサバイバーにとって、「法廷」は被害者を疎外し、被害者を置き去りにしてきた「正義」をその手に取り戻した瞬間でもあった。
 「法廷」には、元日本兵が証言に立ち、自らが犯した強かんや「慰安婦」体験を赤裸々に告白し「凄まじい民族蔑視がそれを後押しした」と証言したが、それを聞いた韓国の被害女性は「もう、あの人たちを許してやりたい」と金允玉(キム・ユノク)さん(「韓国挺身隊問題対策協議会」共同代表)に胸の内を吐露した。オランダのルフ・オハーンさんもまた、「許しを乞い証言する姿を見ていて、彼らを許せる気持ちになった」と語った。「慰安婦」制度の責任者が裁きを受け、加害兵士が真実を口にし、被害者に心から謝罪する姿を目にして、被害女性たちに「赦し」の感情が芽生えた。「責任者処罰」がいかに歴史の克服に重要な行為であるのかを確信する言葉だった。
 女性国際戦犯法廷はいかなる国家にもいかなる国益にも支配されない、影響されない、被害者の正義を実現するために開かれた民衆法廷だった。「法廷」には政治的、国家的権力は介在しない。しかし、確固たる権威はあった。ジェンダー正義である。「法廷」は「慰安婦」制度について日本軍の最高責任者であった大元帥昭和天皇裕仁をはじめ十人の被告に「有罪」を言い渡し、日本政府に国家責任があることを認定した。「法廷」は、日本政府が加害事実を認めて心から謝罪・反省し、その責任を行使することが、半世紀にわたり隣国を遠い国にしてきた「慰安婦」問題の暗くて深い溝を埋めていくことを指し示した思想的出来事だった。
フラッシュバックと健忘
 朴さんは今も日本兵に追いかけられたり、死と隣り合わせだった壮絶な松山(拉孟)の戦場光景が夢に現れ、恐怖で目が覚めることがある。一週間にわたって朴さんの聞き取りを行っていたある朝、私は朴さんの左頬が赤く腫れているのに気がついた。皺が深く刻まれた頬に擦り傷を見つけた私は驚いて「どうしたのか?」と尋ねると、「夕べ、日本兵に追いかけられる夢を見て、夢の中で必死に逃げていた。ベットから落ちて目が覚めたが、落ちた時にベットの脇のテーブルの角に頬をぶつけて擦りむいたらしい」ということだった。繰り返し聞くことで当時の記憶が蘇り、その夜は夢の中で過去に引き戻され恐怖と苦痛のどん底に突き落とされる。それを知った私は胸が痛み、すまないと朴さんに詫びた。しかし、朴さんはしばらくの沈黙をおいてこう語った。
 「話すのは辛いけれど、私の話を日本の人たちに伝えてほしい。私がどんなにひどい目に遭わされたのか。過去が何も無かったこととして葬り去られるとしたら、私の人生は一体何だったのか納得することができない。あなたが少しでも私の話を聞いて辛いと思ったら、私に謝るのではなく、日本の人たちに伝えてほしい」と。
 朴さんの「私たちの体験を忘れ去らないで」という言葉に、私は日本人の記憶のアムネジア(忘却)への怒り、しかし、なお彼女が日本人に一抹の希望を託していることを知った。

国際法と正義

 今年になり、「慰安婦」裁判、戦後補償裁判に、次々に上告棄却、上告受理棄却の決定が出された。一九九三年に提訴した在日「慰安婦」裁判の原告宋神道(ソン・シンド)さんは控訴審の最終陳述で「戦地に引っ張っていく時はお国のため、お国のため≠ニ言っておきながら、今になってなして朝鮮人だ∞慰安婦だ≠ニ差別をつけるのか。だから裁判に訴えた。なんじょのものだが、意味を知りたいんです。なして私が慰安婦≠ノされたのか、なして差別をつけられるのか、その意味をはっきりさせてほしいんです」と述べた。しかし三月二八日、上告棄却の決定により、宋さんの十年に及ぶ命がけの闘いは一方的に断ち切られた。この判決に対して在日「慰安婦」裁判を支える会が出した抗議文には、「戦時中に踏みにじられた人権を回復されることなく、戦後も苦しみ続けてきた一人の人間の、人間らしく生きたい、人間らしく扱われたい」という切実な叫びに、「全存在をかけて裁判に臨んできた」宋さんに、「何の理由も示さない一片の『決定』をつきつけることで再び宋さんを深く傷つけた」と記されている。被害者が求めてきたのは過ちを犯したことへの真摯な反省と謝罪であったが、司法はそうした被害者の声を固く閉ざした。一審二審とも棄却になった理由には国際法は国家と国家の取り決めであり、個人に請求権は無いというものもあったが、このように国際法が被害者の正義を封じる論拠として援用されてきたことのジレンマを払拭することはできない。国際法とは一体、誰のものなのか。
未来志向と責任
 十三年前に「慰安婦」問題を日本社会に浮上させた韓国の尹貞玉(ユン・ジョンオク)さん(韓国挺身隊問題対策協議会元代表)は、かつて「日本政府が被害者が納得しない解決でこの問題を終らせるならば、慰安婦問題は百年闘争になるでしょう」と語ったことがある。今、その言葉が生々しく蘇る。被害回復されないまま苦しみ続ける被害者がいる限り、たとえ数十年後に被害者たちがその生命を終えていたとしても、「恨」は次世代に受け継がれ生き続けているだろう。被害者の姿がなくなったその時ではもう遅い。
 韓国の盧武鉉大統領の来日を前に、麻生太郎自民党政調会長は「朝鮮人創氏改名は朝鮮人が望んだこと」と発言したが、日本が過去の植民地支配を巡る歴史認識と責任の問題を解決しない限りこうした発言は繰り返されるだろう。過去を曖昧にした「未来志向」など有り得ない。被害者が納得する過去の清算があってはじめてそこに、新しい日本と朝鮮半島の未来が扉を開けるだろう。
西野瑠美子(にしの るみこ)
ルポライター。「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW‐NETジャパン)共同代表。「女たちの戦争と平和人権基金」理事。編著書に「裁かれた戦時性暴力」「慰安婦・戦時性暴力の実態U」「従軍慰安婦と十五年戦争」など。