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韓国の反米・統一運動の現況
― 朝鮮半島の内側から見た米国と北朝鮮 ―
■「赤い悪魔」が反米のキャンドルへ
 ちょうど一年前の六月、ソウル市庁前広場。そこは連日、独特のリズムで「テー・ハン・ミン・グッ」(大韓民国)を連呼してワールドカップサッカーの韓国チームを応援する人びと、レッド・デビルス=「赤い悪魔」で埋めつくされていた。その熱狂は、統一地方選挙の公休日だった十三日の午前、朝鮮民主主義人民共和国(以下、便宜的に北朝鮮と表記する)攻撃の軍事訓練に参加していた駐韓米軍の装甲車にひき殺されたシン・ヒョスンさんとシム・ミソンさん(十四歳・中学二年生)の無残な死を、社会の片隅に追いやってしまった。


シン・ヒョスンさん(左)と、シム・ミソンさん(右)の遺影。

 そして今年の六月十三日。同じソウル市庁前広場は、梅雨空の下で開かれた「六・一三 シン・ヒョスン、シム・ミソン一周忌追慕大会」に参加した市民の十万のキャンドルで埋めつくされた。このキャンドルは単に二人を追慕するだけでなく、「イラクの次は北朝鮮」と公言するブッシュ政権の戦争政策によって、朝鮮半島に重くたれこめた戦争の暗雲を焼きつくそうとする、「自主と平和」を願うキャンドルでもあった。
 キャンドルは二人の女子中学生の命の炎を象徴している。駐韓米軍事法廷が昨年十一月、二人の女子中学生をひき殺した装甲車の運転兵らに「無罪」判決を出したとき、市民の提案ではじまったキャンドル集会は、米国大使館に近いソウルの光化門で開かれ続け、極寒の冬を耐え抜き、今日にいたるまで二百日を越え、いまも継続されている。



今年6月13日、ソウル市庁前に集まった10万人の市民

 大きな旗をひるがえし、そろいのTシャツを着た社会・統一運動団体や労働組合、学生や市民団体の会員たち。小さい子の手を引いた家族連れや、学校帰りで制服を着たままの中学生、高校生の姿も目に付く。お年寄りに、サラリーマン。いわゆる一般市民の数は、「運動圏」の人びととほぼ同数だ。「運動圏の反米運動」が、「国民の反米運動」になったと評価されるゆえんである。
 昨年の十二月十四日にも、十万の市民がソウル市庁前を埋めた。盧武鉉(ノ・ムヒョン)現大統領が「奇跡の勝利」を収める五日前だった。盧武鉉候補は当時、「古い政治の清算」と「民族の和解と対等な韓米関係」、そして米国による一方的な「北朝鮮の核問題」の複雑化で高まった緊張に、「戦争か平和か」を主張して旋風をまき起こしつつあった。米国の対北朝鮮強硬路線に同調し、伝統的(=従属的)韓米関係の維持を主張する野党ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補との接戦を演じていた盧武鉉候補陣営が、反米キャンドルデモの熱気を自身への投票につなげようと努力していたことは、想像に難くない。
 その意味で、この追慕集会と昨年十二月十四日のキャンドル集会は、「状況が大きく異なっていた」と指摘されている。日本の三大新聞に相当する東亜日報、中央日報、朝鮮日報の「ビッグスリー」の問題設定と解説、世論形成力が、インターネットの普及と利用が日本を相当に凌駕している韓国では、若い世代を中心に非常に低下している。
 韓国のインターネット新聞と放送局は、共同取材団を構成して、大々的に一周忌追慕大会を取材し報道した。この指摘は、インターネット共同取材団によるものだ。
「昨年の十二月十四日は、韓国の既得権勢力と米国が、市民らの噴出する反米感情を『どうすればいいのかわからなかった』状況で開かれたとするなら、今日のキャンドル集会は、韓国政府と米国が一体となって、世論攻勢と物理的攻勢を集中する状況で開かれた」とする。つまり、ブッシュ政権は盧武鉉政権に圧力をかけ、一方で韓国内の守旧保守勢力を動員して二度にわたって「反核・反金正日(キム・ジョンイル)集会」を開かせて攻勢をかけた。とくに盧武鉉大統領のイラク侵略支持と韓国軍のイラク派兵、訪米と対北「追加的措置」を明記した韓米共同声明と親米発言は、反米のキャンドルにとって逆風だったといえよう。
「しかし、市民らは平日の夕方の市庁前に、十万人(主催者側の推算)のキャンドルを集めて自主と平和が『もはや揺ぎのない確信』になったということを明らかにした。/盧武鉉参与政府は当選初期から『キャンドルデモ自制』を要請しながら、キャンドルが韓米関係に悪影響を与えると主張してきた。しかし、今回の追慕祭で市民らは、キャンドルが韓米関係に与えた影響は、非正常な関係を正常化させるための『善影響』だと返答したのである。」


亡くなった女子中学生の両親―マイクを持つシム・スボ氏

 追慕大会には亡くなったヒョスンさんとミソンさんの両親も参加した。舞台に上がったヒョスンさんの父、シン・ヒョンス氏は「ヒョスンとミソンを長い間覚えていてくださり、またキャンドルのあかりが消えないようにしてくれた国民のみなさんに心から感謝し、この地でこれ以上私たちのような遺族が生まれることのないよう願っています」と述べた。続けてミソンさんの父シム・スボ氏は、この間のキャンドル集会とデモを主導した「米軍装甲車による女子中学生故シン・ヒョスン、シム・ミソン殺人事件汎国民対策委員会」(汎国民対策委)と国民に感謝しながら、「キャンドル追慕大会が不平等な韓米駐屯軍地位協定(SOFA)全面改定の下支えになるように願います」と悲痛な心情を伝えた。キャンドルを持ったヒョスンさんの母チョン・ミョンジャ氏はうつむき、嗚咽するだけだった。その姿が参加者の涙を誘い、駐韓米軍への怒りを新たにさせた。


米国大使館へ向かおうとするデモ隊

 追慕大会を終えた市民らは、一年前から主張しつづけている「事件の真相究明」「殺人米軍の処罰」「ブッシュの公開謝罪」「SOFA全面改正」「ヤンキーゴーホーム」を叫びながら、駐韓米大使館のある光化門への平和大行進を開始した。昨年十二月には、阻止線が突破され、韓米関係史上初めて、市民が米国大使館前で反米集会を開いた。これにこりた警察は、光化門と市役所一帯を警察バスのバリケードで完全に封鎖して、市民の米国大使館前への進出を妨害した。
 ソウル市内だけでなく、韓国全土の駐韓米軍基地にも警官が配備され、厳戒態勢がひかれたという。「韓国を守るために駐屯しているという米軍が、いまは韓国の警察に守られている」とのあざけりは、すでに一般化して久しい。



市庁前でキャンドル集会に参加する女子生徒たち

 インターネット共同取材団は、参加者のこんな声を伝えている。十二歳の娘とキャンドル集会に熱心に参加してきたキム・ヤンスック氏(女性・四十六歳)。「キャンドルデモは対米従属的な関係から、私たちの領域を確保して行くためのもの。この子が大人になった時には変化していることを期待する」。また、先生と一緒に初めて参加した中学一年のミン・ソニョンさん(十四歳)は、「テレビでキャンドルデモを見た時には、みんなの苦痛や悲しみはおぼろげにしかわからなかったけれど、来てみてとても胸が痛みました。米軍も恨めしくて。またキャンドル集会に参加します」と言いながら、キャンドルを見つめた。
 六月十三日から十五日にかけて、ソウル市庁前広場以外にピョンヤン、プサンをはじめ、東京、ワシントン、ロスアンジェルスなど、朝鮮半島全域と海外の八十九か所で追慕および自主・平和、反米反戦集会とデモが行われ、数十万人が参加した。
 熱狂的な応援でワールドカップサッカー四強に韓国を導いた「赤い悪魔」たちの自尊心は、女子中学生れき殺事件と米国政府と駐韓米軍のごう慢な態度で無残に打ち砕かれた。「赤い悪魔」は反米のキャンドルへと姿を変えた。五十年を越える不平等で歪んだ韓米関係、米軍駐屯の意味、戦争の脅威はどこからやってきているのかを、韓国民は女子中学生事件を通してはっきりと目撃したからだ。
■ 被害者がいて加害者がいない
 昨年の六月十三日午前十時四十五分ごろ、軍事境界線に近い京畿道揚州郡広積面孝村里に住むシン・ヒョスンさんとシム・ミソンさん(ともに中学二年生の十四歳)が、通学路でもある一般道を歩いていて、米第二師団工兵隊所属の架橋運搬用装甲車(重量五十四トン、運転兵マーク・ウォーカー兵長、管制兵フェルナンド・ニーノ兵長)にひかれて即死した。
「友だちの誕生会へ行って来る」「うん、気をつけて行っておいで」
 昨年の七月十七日、「青少年行動の日」の集会でミソンさんの兄シム・ギュジン君は、妹と交わした最後の言葉を紹介しながら、「その次に見た妹は、巨大な装甲車に押しつぶされた姿になっていた。人があんなに悲惨に死んでしまうなんて理解できない。米軍が沈黙している真相を絶対明らかにしてやる」と、しぼり出すように言った。
 「画家になりたい」(ヒョスンさん)、「かわいい人形の店をもちたい」(ミソンさん)という二人の小さな夢は、米軍装甲車によって永遠にかなわぬ夢にされてしまった。


女子中学生2人の事故現場の写真。イ・ヨンナム氏撮影。

 一枚の写真がその惨状を痛ましくも記録している。汎国民対策委のキム・ソンラン組織委員長は、この六月十三日に東京で開かれた事件一周年の反戦平和アクションの報告で、「キャタピラで押しつぶされたヒョスンさん、ミソンさんの遺体の写真は、理屈ぬきに痛みが伝わり、米国の横暴への怒りをかきたてた」と述べた。
 事故のあった道路は往復二車線の狭い道路で、白いペイントで歩道が示されている。この狭い道路を使って、周辺に三か所もある米軍演習場へと向かう米軍車両が、わがもの顔で通行していた。遺族と村の住民らは、事故車両の幅が道路の幅より広いうえに、対向してきた、これも米軍のブラッドリー装甲車を避けようとしたなどの点から、今回の事故は予告された殺人行為だったと主張した。
 米軍当局は、米第八軍司令官が遺憾の意を表明、米第二師団の参謀長らが弔問して遺族に慰労金百万ウォンを渡すなど、一刻も早く事態収拾しようとした。しかし、肝心の事故の真相究明にはあまりに消極的だった。
 米軍側は六月十九日、韓国当局を引き込んで韓米合同調査結果を発表した。「この事故は決して故意や悪意ではない、悲劇的な事故」とし、@運転兵が装甲車の死角にいた二人を発見できなかったA官制兵が約三十メートル手前で二人を発見して運転兵に警告しようとしたが、通信障害で警告が伝わらなかったB時速八〜十六キロで走行していた――などとした。
 ところがこの発表は逆に、@戦場では歩兵もともに行動する装甲車の視野が確保できないとの詭弁A通信障害というあってはならない重大な(故意の)過失Bキャタピラ車は、時速八〜十六キロならその場に止まるのに、二人の被害者が一列に横たわり、頭がい骨が完全に砕けるほど踏みつぶしたのは、相当のスピードを出していた――など、数々の疑惑を浮上させた。
 それでも米軍側は真相究明どころか、責任者を処罰する姿勢を一切見せなかった。
「事故が起きれば、真相を明らかにすべきではないのか。人が二人も死んだのに、どうしてだれにも責任がないというのか……」
 遺族らの嘆きと怒りは当然のことであった。


昨年2002年6月20日の初めての集会

 遺族と社会団体、そして中学・高校生たちは六月二十日、議政府市の米第二師団キャンプ・レッドクラウド前で「女子中学生を殺した駐韓米軍糾弾大会」を開き、闘いの烽火をあげた。この日の集会と激しい抗議闘争が、長く厳しい闘いの始まりとなった。とくにこの集会には、亡くなったヒョスンさんとミソンさんの姉が通う女子高校生約二百人が制服のままで参加し、「自分の身代わりに死んだ同級生の妹」の無念を晴らすため、涙ながらに抗議する姿がインターネットを通じて流され、国民に大きな衝撃を与えた。
 遺族と社会団体は六月二十六日、汎国民対策委を組織して、「真相究明と責任者の処罰」「韓国法廷での裁判」を実現する態勢を整えた。汎国民大会を開いて米軍側に刑事裁判権の放棄を要求する一方、六月二十八日には運転兵と官制兵、米第二師団長ら米軍責任者六人を業務上過失致死の疑いで告訴した。
 ワールドカップ期間中のため、大きく注目されなかったこの事件は、連続的な抗議集会とインターネットでの情報提供によって、七月に入って急速に社会の注目が集まりだした。それを促進したのは、駐韓米軍のあまりにもごう慢な態度だったといえる。
 在外米軍は、駐屯地でみずからの作戦行動に制約をもたらしかねない裁判管轄権の委譲をかたくなに拒否する。治外法権で米兵を守るとの保証がなければ、米兵も故郷を離れて海外駐屯する苦痛を甘受できないということか。しかし、それが米兵の無軌道ぶりを助長させる。
 米軍は刑事裁判権放棄要求に対して七月三日、運転兵と官制兵を過失致死罪で米軍事法廷に起訴した。国民の高まる要求に押されて、韓国法務部が史上初めて裁判権放棄の要請をしたが、米軍は不平等なSOFAを盾に、「訓練=公務中」の事件の裁判権は韓国側に渡せないと主張。七月二十七日には「軍事裁判所の刑罰は大部分、民間の裁判所よりも厳しく重い」との詭弁をろうした声明を出したうえで、八月七日に裁判権委譲を拒否した。
 ハン・ホング聖公会大学教授は、「米軍による犯罪を韓国の裁判所ではなく、全的に米軍の軍法会議で裁判するようにしたのは、帝国主義時代の治外法権の延長線上に立っている措置だ。治外法権というのは、一国の国民が他の国に居住するとき、両国間の条約によって駐在国の領土内で駐在国の法令に服従せず、本国の法令に服従する特権を言う」(「ハンギョレ二一」第四二一号、〇二年八月十五日)と厳しく指摘した。
 こうして九月、部隊長や指揮官は起訴せずに事件を縮小し、装甲車の管制兵と運転兵だけを「過失致死」で起訴した米軍事裁判が始まった。裁判は現役米軍人の陪審員団で、米軍側の証人だけを集めて行われた、まさに「犯人が犯人を裁く裁判」だった。予想通り十一月二十日と二十二日、二人の米兵に「無罪」判決が出た。事件真相が全く明かされないまま、関連指揮官らは証人に採択されない形式裁判に過ぎなかった。それだけでなく、盗人猛々しくも、裁判過程では、女子中学生の「過失」がうんぬんされさえした。
 二人の米兵は「無罪」宣告のわずか五日後の十一月二十七日、短い謝罪声明を出した後、韓国から逃亡してしまった。
「被害者がいて、加害者がいない」「韓国の主権と民族的尊厳が、二人の女子中学生と同じように、原型をとどめないほど無残に踏みにじられた」
 韓国民の怒りは天を突いた。米軍兵士に「無罪」判決が出て以後、キャンドル集会と米大使館に向けた平和大行進が連日行われ、そこには歌手や俳優、映画監督、タレントまでもが参加し、歌い、発言した。
 こうして、冒頭に記したように、「世界有数の親米国家」といわれた韓国で、世界最大規模の反米集会が連続して開かれるようになったのである。
■積もりにつもった恨(ハン)―韓国にとって米国とは
 米軍は一九四五年九月八日、朝鮮半島に上陸したその日から犯罪を働いた。それは、現在の韓米関係を象徴していたといえよう。
 その日、多くの韓国民たちは、日本帝国から救援してくれた「解放軍」を歓迎しようと仁川港に行こうとした。しかし米軍は、上陸着陸作戦に支障をきたすとして、あろうことか日本人軍事警察を動員して韓国人らの外出を一切禁止させ、仁川港に来た一部の韓国人らは、警備区域を侵犯したとの理由で日本警察の銃撃を受け二人が死亡、十人が負傷する事件が発生した。
 韓国民の抗議に対し、米軍当局は正当な公務執行として日本警察を擁護した。これが駐韓米軍犯罪第一号として記録されている。罪名は殺人ほう助である(『老斤里から梅香里まで』、日本語版翻訳委員会訳、宇多出版企画より)。
 「解放軍」どころか軍政をしいた占領軍=米軍が、わがもの顔で韓国にのさばったのは言うまでもない。最近次々と明らかになっている朝鮮戦争時の住民の大量虐殺は、米軍が韓国人を人間とも思っていなかったことを如実に示している。
 SOFAが締結されたのは、ようやく一九六六年である。それまで韓国は、まさに米軍の強かん、殺人、放火などの「犯罪天国」だった。しかし、韓米関係を反映した不平等なSOFAでは、まったく犯罪を抑止できなかった。
 韓国政府の公式統計によると、六七年から九八年までに起きた駐韓米軍人の犯罪は五万八百二件。これを根拠に、米軍進駐以来の米軍犯罪は十万件を下らない、と推定されている。
 犯罪だけではない。米軍による私有地の強制占有と使用、基地・演習場周辺の誤爆・騒音・環境汚染による市民生活の破壊。そして、軍事文化のまん延による人権の蹂躙(じゅうりん)は、止まることを知らなかった。
 こうした韓米関係を規定するのが、朝鮮戦争の停戦後の一九五三年十月に締結された「韓米相互防衛条約」である。第四条は「相互的合意によって米国の陸軍・海軍と空軍を大韓民国の領土内とその付近に配備する権利を大韓民国は与え、米国は受諾する」としている。
 つまり韓国政府は、米軍に駐留する「権利」を与え、それを米国が「受諾」するというのである。この条約は、これまで一度も改正されたことがなく、米軍駐屯の目的規定もない。そして米軍撤収に関する協議規定もなく、条約の時効が無期限となっている。米日安保条約が米日関係を規定するように、この条約が韓米関係を規定している。この条約のどこにも対等な韓米関係を保証する条項はない。
 それだけでなく、韓国軍の軍事統帥権(作戦指揮権)は、駐韓米軍司令官が行使することになっている。朝鮮戦争開戦直後、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領は「韓国陸海空軍に対する指揮権委譲に関する書簡」(一九五〇年七月十五日、大田協定)で、「現作戦状態が継続する間、一切の指揮権を委譲する」とし、マッカーサー米司令官は、「感謝を表明」した。朝鮮戦争は一九五三年七月の休戦協定で戦火はやんだが、それはあくまで一時的休戦に過ぎない。したがって、「現作戦状態が継続」しているということになる。先の韓米相互防衛条約の発効に先立って一九五四年十一月の「韓米合意議事録」と共同声明で、「韓国は、国連軍(=米軍)が韓国防衛の責任を継続負担する間は、韓国の軍事力を同司令部の作戦管轄下に置くことに同意した」。
 一九九四年に米国は、「平時作戦指揮権」を韓国側に返還した。しかし、軍隊とは戦争をする集団である。平時の作戦指揮権など何の意味もない。戦時の作戦指揮権は相変わらず駐韓米軍が掌握している。駐韓米軍の韓国軍に対する作戦指揮権の掌握は、憲法上、韓国大統領がもつことになっている主権を無力化している。つまり、韓国軍の若者を米国大統領が、米国の国益にもとづいて、駐韓米軍の弾除けにすることができるのである。
 こうした「米国支配」のもとで、米軍は横暴の限りをつくし、凶悪犯罪をほしいままにしてきた。
 なぜそうできたのか。それは朝鮮半島が南北に分断され、軍事的に対峙(じ)していたからである。分断体制は、歴代の韓国軍事政権の存立基盤となり、その上に米軍が韓国民を支配する構造を形作った。したがって、韓国では深刻な米軍問題が存在しようとも、米軍が韓国民に直接対峙(じ)するのではなく、韓国政府が国家保安法を盾にして、国民の抗議を抑圧し続けてきた。「駐韓米軍が北朝鮮の南侵を抑止している」との反共・反北イデオロギーは被害住民を孤立させ、それでも米軍駐留を批判するなら、「駐韓米軍を撤収しろ」との北の主張に「同調」し、「北を利する」ものとして、国家保安法で弾圧するプログラムが韓国政府によって用意され、実際に熾烈な弾圧が行使されてきたのである。
 日本でも日米安保同盟反対運動や基地撤去運動に対して、これに類した「国賊・利敵」の悪罵(ば)が投げつけられるが、韓国のそれは徹底した反共イデオロギーが支配する上に、国家保安法という、最高刑が死刑の刑罰をもつ実定法での弾圧がある。米軍犯罪被害者の忍苦・無念の重さは、想像を絶するものがあった。そしてこれは、積もりにつもった恨(ハン)となった。
■二つの大きな転機
 米国、米軍問題を争点化し、大衆的な闘争を可能にする大きな、そして決定的な転機が二つあった。
 ひとつの大きな転機は、八七年からの民主化の進展である。八七年六月、韓国民は「大統領直接選挙改憲」を掲げて、全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事独裁権力に対して街頭の闘争で圧迫する、非妥協的な方式で民主化を進展させた。国民のたゆまぬ民主化運動が、押さえつけられていた米軍問題を世論化させ、犯罪・基地問題が住民運動化された。
 もうひとつの決定的な転機は、二〇〇〇年六月の南北首脳会談と六・一五共同宣言による「南北和解と交流・協力」時代の幕開けである。「国の統一問題を、その主人であるわが民族同士が互いに力を合わせ、自主的に解決していく」と明示した共同宣言に基づいて、さまざまな南北の交流・協力が実践されてきた。
 政治、経済、社会、文化、宗教、労働者、農民、女性、青年学生などの部門別交流、また政府間の会談をはじめ、各界の民間人が南北を互いに行き来して同族としての情を確認した。民族最大の悲劇である離散家族の相互訪問が回数を重ねて、生き別れの家族の痛みが少しずつ治癒されつつある。さらに、京義線・東海線の鉄道と道路、開城工業団地の建設などで、南北経済の活性化が図られている。
 これによってもたらされた国民意識の変化は決定的だった。韓国において「反北」と「親米」は不可分であり、逆に、「反米」と「同族」も不可分だという相互関係がある。六・一五共同宣言以後、韓国民は、これまで「敵=打倒すべき対象」とされてきた北の同胞が、統一の対象であり懐かしい同胞であることを日々確認してきた。強要されてきた「反共・反北=親米」意識が、「同族・北=外国・米国」に、さらに進んで「反米親北」へと大きく変化した。
 こうして、米軍の横暴や米軍犯罪を甘受すべき根拠は崩れた。そうなると、米軍の横暴や米軍犯罪の被害者の痛みが、「共産主義と闘うために仕方ない」ものではありえず、自分自身の痛みになる。六月十三日に数十万人のキャンドルが夜空をほの明るく照らしたのは、この「共感共苦=コンパッション」のたまものである。また、ブッシュ政権の戦争政策や日本の対北圧迫で受ける北の同胞の苦しみは、「わが同胞の苦しみ」になる。
 北朝鮮に対する意識と認識の変化は、ただちに米国や駐韓米軍に対する意識と認識の変化につながったのである。女子中学生事件で国民的争点となったSOFAの全面改定は、いずれ韓米相互防衛条約の改定・破棄に向かい、軍事統帥権の奪還へとつながるだろう。


今年6月13日、ソウル市庁前に集まった10万人の市民

■盧武鉉政権の誕生と朝米緊張
 先にもふれたように、昨年十二月の韓国第十六代大統領選挙で、盧武鉉候補が当選したのは、高まった反米意識と北朝鮮に対する同族意識の反映だったといえる。実際、この大統領選挙でもっとも核心的な争点は、大統領選挙の一月前に米国が仕掛けた「北朝鮮核問題」に対する対処、南北関係=民族問題だった。この問題に対して盧武鉉候補は、南北間の対話と和解・協力、交流事業を持続的に推進していくとし、統一の里程標である六・一五共同宣言を誠実に実践するとの意思を明らかにした。
 今回の大統領選挙は、盧武鉉候補(一千二百万票、四十八・九%)が約五十七万票の「僅差」で李会昌候補を破ったとされているが、単純にそのように見ることはできない。第一に、七〇・八%という低い投票率にもかかわらず、進歩性向の強い盧候補の得票が、保守票を上回ったのは、四十歳代以下の若い世代が選挙へ積極的に参加したことを意味した。
 第二に、得票において進歩性向の盧候補と民主労働党の権永吉(クォン・ヨンギル)候補は、合わせて一千二百九十七万票(五二・八%)だったのに対して、李会昌候補をはじめとする保守票は合わせて一千百五十六万票(四七・一%)で、その差は百四十一万票(五・七・%)となり、今回の選挙の核心争点から見ると、この結果は決して「僅差」ではない。
 中央日報などが昨年十二月二十日から二十七日まで一千五百人を対象に行った「大統領選挙後の有権者へのアンケート調査」によると、二十歳以上の国民の五十一・五%が「北朝鮮の核開発問題と関係なく、同じ民族の立場から北朝鮮への支援をなるべくたくさん行うべき」との考えに同意していることが分かった(四四・四%は反対)。
 また「米国との友好関係を放棄しても、SOFAを再改正するのが必要」との意見には「全的に賛成」が五〇・〇%、「若干賛成」は二七・一%の七七・一%が賛成(「絶対反対」五・三%、「若干反対」は一一・九%)した。
 この世論調査の結果は、韓国民が盧武鉉大統領に何を期待し、何を求めていたかを雄弁に物語っている。ところが最近の盧武鉉大統領は、こうした国民の期待に反している。
 韓国を代表する知識人の李泳禧(リ・ヨンヒ)漢陽大学名誉教授は、こうした盧武鉉大統領の姿を、「米国の政策、ブッシュ政権の歴史や根本的な目標が何であるか、何もわかっていない」からだと指摘した(インターネット新聞『統一ニュース』五月二十二日、以下同じ)。
 李泳禧教授は、米国の朝鮮半島政策は「できる限り緊張状態を維持しようとするもので、朝鮮半島の平和も、南北和解と協力も願っていない。米国の対北東アジア基本戦略は、中国をけん制するために日本を軍事大国化し、米日同盟を強化することだ」と明らかにした。
 李教授は「北朝鮮の核問題」に対しても、「用語の問題は大切で、現在の朝米間の問題は『北朝鮮核問題』ではなく、九四年十月二十四日に締結された朝米ジュネーブ基本合意を米国が順守せずにほとんど破棄したために起きた問題で、正確に『九四年ジュネーブ合意の米国による違反問題』としなければならない」と主張した。そして「日本を軍事大国化するためには、日本国民の北朝鮮に対する恐怖心を持続させる必要がある」と、実態から遠くはなれた「北朝鮮核問題」の効能を説明した。
 全マスコミをあげて「一億総反北朝鮮」に作り上げている日本では、このような冷静な分析と評価はまったく受け入れられないだろう。
 しかし、韓国民は問題を平和的に、そして正しく解決しようとしている。
 「ハンギョレ新聞」(五月十五日付)の世論調査によると、「北朝鮮の核問題が平和的に解決されるために、まず何がなされなければならないか」との質問に、五一・五%が「米国が北朝鮮体制を認定し、北朝鮮が核兵器を解体するとの約束が同時におこなわれなければならない」と返答し、「米国の北朝鮮体制認定と軍事攻撃を排除する約束が優先」の一二・九%を合わせて、六四・四%が米国に北朝鮮の体制認定を求めた。
 また、「北の核解体のために米国が北朝鮮の核施設を軍事攻撃しなければならない」との主張には七九・九%が同意しない(まったく同意しない四二・八%、同意しない三六・九%)との反応を見せた。同意するという意見は一七・三%だった。そして、北朝鮮に対する人道的支援は「継続しなければならない」との返答が七〇%だった。
 平和憲法を踏みにじる有事法が可決され、イラクへの自衛隊派遣法が成立しようとしている日本。在日朝鮮人と北朝鮮の肉親を結ぶだけでなく、朝日の架け橋ともなっている万景峰号の国際法を無視した、戦時にも等しい入港妨害。朝鮮総連と朝鮮学校に対する圧迫と迫害。あらゆるメディアによる北朝鮮社会、文化、経済、政治に対するあざけり、けなし、言いがかり、非難。経済封鎖せよ、先制攻撃せよと叫ぶ国会議員と「一般市民」。
 北朝鮮に対するあざけりに反して、韓国文化は称賛の対象のようだ。韓国映画界の国民的スターといわれるハン・ソッキュが最新作の『二重スパイ』の公開に合わせて訪日し、朝日新聞とのインタビューにこう答えていた(朝日新聞六月四日付夕刊)。
「・・・北に対する感情は、韓国でも厳しい。しかし伝えられている姿だけが北の真実なのか、考えてみることが大切です。七〇年代に『北の人間は赤い顔をして角がある』といったゆがんだ反共教育を受けた私は、特にそう思います」
 いまの日本で、こんなあたりまえのことをマスコミに登場して話せる芸術家や知識人、言論人がいったい何人いるだろうか。
 六・一五共同宣言や反米のキャンドルが生み出した韓国社会のダイナミックな変化と、日本社会の退行が、鮮やかなコントラストをなしている。もう後戻りのない韓国民の南北和解・協力と反米運動は、ブッシュ政権と小泉政権の危険な戦争政策を破綻させる、世界的にも重要な運動となっている。
黄英治(ファン・ヨンチ)
在日韓国民主統一連合。掲載の写真は2枚を除き、韓国のインターネット共同取材団によるもの。