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生きている亡霊
― 民族学校差別の背後に見えるもの ―
あくまで民族学校差別に固執する文部科学省
 二〇〇二年七月二日「大検なし受験OK 大学入試 要件を撤廃 外国人学校・高校中退者負担を軽減」との見出し、「文部科学省は、高卒者や大学入学資格検定(大検)の合格者らに限って認めてきた大学入学資格の要件を撤廃する方針を固めた。外国人学校の卒業者の進学機会均等を求めた総合規制改革会議の答申を受けた措置で、早ければ来年度入試から、各大学が個別に入学願書書類などから資格の有無を判断する形に改める。これにより高校中退者・外国人学校の卒業者が、大検を受けなくても大学を受験できるようになり、進学の道が大きく広がることになる。」との毎日新聞のスクープ。
 二〇〇二年九月一三日「歴史的責任という観点からも、人権という観点からも、教育の国際化という観点からも、外国人学校出身者の受験資格を認めることが適当と判断される。したがって、本学において、本最終報告踏まえ、可及的速やかに外国人学校出身者の本学受験を可能にするための体制の整備を進めるべきである。」との京都大学同和・人権問題委員会、民族学校出身者の京都大学への受験資格に関する最終報告。
 二〇〇三年二月二一日、これまでの報道を全くくつがえす「国立大学入学資格、朝鮮学校に認めず」との見出し、「学校教育法上一条校に定められた学校ではないという理由から国立大学の受験資格が認められていない民族学校とインターナショナルスクールなど外国人学校のうち、文部科学省が三月末までにインターナショナルスクールの卒業生のみ受験資格を与え、朝鮮学校など民族学校にはこれまで通り、認めない方向で検討していることがわかった。」との朝日新聞のスクープ。
 同年三月六日、中央教育審議会大学分科会が「(外国からの対日投資の増加に伴い、中・長期的に滞在する外国人子女が増えており、対日投資を更に呼び込むためにも、インターナショナルスクールに通う子女の大学や高校への入学する機会を拡大すべきとの総合規制改革会議答申を受けて、)WASC、ACSI、ECISなど欧米の民間教育認定機関認定校のみに大学入学資格を認める(朝鮮学校や中華学校などアジア系学校生徒を排除)」との答申。文科省はこの答申を受けてパブリックコメント(意見収集)を実施。
 このあからさまなアジア系民族学校差別方針に対し、様々な立場から「この方針の撤回、全ての外国人学校出身者に大学受験資格を認めるべきだ」との声が日本国内はおろか、関係の海外各地からもほうふつと湧きあがり、マスメディアさえも文科省方針を批判。「民族差別の当事者にはなりたくない、全ての外国人学校出身者に受験資格を」との国立大学教職員による声明には一ヶ月足らずの間に一五〇〇名にものぼる国立大学教職員の賛同が寄せられ、世論形成に大きなインパクトを与えた。
 パブリックコメントは、有効とされた一万三千通余のうち九六パーセントが文科省方針を批判。この世論の高まりの中で文科省は三月二八日、「方針」をいったん凍結と発表。ところが三月三一日、凍結したはずの「判断基準」で、欧米の民間学校教育評価機関の認定を受けたインターナショナルスクールのみに「税制上の優遇措置」を与えると発表(このことはインターナショナルスクールの中にも適用されない学校が生じるという矛盾もさらけだしたが)、省令を告示し四月一日から実施。ここに見事なまでの民族学校差別が貫徹された教育行政が続行されることになった。
 以上、ここ一年間の民族学校(外国人学校)差別の問題について、大学受験資格を中心に時系列的に見てきた。民族学校差別解消の方向に向かいつつあると思われたものが、それが逆転してむしろあからさまな民族学校差別がなぜ展開されていくのか。それは、文科省の(日本政府の)教育行政なのか、日本という社会が持つ特有性なのか、民族学校差別の背後に潜んでいるものは何なのか、少し考えてみよう。
奪われた民族の言葉・文化・歴史を
とりもどすための朝鮮学校設立
 ここで少し民族学校、とりわけ日本における外国人学校の大半を占める朝鮮学校の歴史について、すでに多くの識者、当事者からその歴史は明らかにされているのであるが、繰り返し見ておこう。その歴史こそが、民族学校が差別され続けてきた実証だからである。
 日本帝国主義は朝鮮侵略から始まり、植民地支配、併合の歴史の中で、朝鮮支配の実効をあげるため(支配を貫徹するために)土地を奪い、皇民化政策のもと言葉を奪い、文化を奪い、創氏改名によって名前まで奪っていった。
 朝鮮半島において生活が出来なくなった朝鮮人は、日本内地(当時、日本国内を内地、それ以外の日本が支配している地域を外地と称していた)へ職(生活)を求めて移住(流入という表現が正しいのかもしれない)、それに加えて太平洋戦争末期には、強制連行による内地移住が行われた。(この過程のなかで朝鮮人蔑視が増幅されたのは想像に難くない)その数は日本の敗戦時一九四五年には二三六万人あまりが居住していたと記録されている。
 日本の敗戦により朝鮮は解放され、祖国へ大多数の人々は帰国したものの、祖国の状況に不安を感じた人、祖国での生活基盤を失っている人はそのまま日本に留まらざるを得なかった。その数、五〇〜六〇万人と言われている。こういった人たち、在日朝鮮人を生み出したのは日本の植民地政策の結果であること、その事が日本人の脳裏から忘れさられて、いやむしろ意識的に無視しているのかもしれないところに、在日朝鮮人問題に対する日本社会の差別的構造を生んでいる要因がある。
 文化も言葉も、名前さえ奪われ、日本に居住している(せざるを得なかった)在日朝鮮人にとって、自分達の民族の言葉を学び、歴史を学び、文化を継承したいとの熱い願いが生まれるのは当然であり、解放後ただちにそのための学びの場としてつくられたのが国語(母語)講習所であり、それが発展して初等学校となった。全国に五二〇とも五五〇とも言われるが、その実数が確認できないほど、熱い想いの中でまさに雨後の竹の子のようにできていった。
朝鮮学校つぶしの大弾圧と阪神教育闘争
 この朝鮮学校に対して日本政府は、一九四七年四月「朝鮮人児童の就学義務について」の回答文書(自治体に対し)を出し、在日朝鮮児童・生徒も日本人学校への就学義務を課した。が、しかし、朝鮮人子弟(この表現には問題があるが文部当局の表現であり、差別性を明らかにするためにもそのままとした。子女という表現も同じ理由でそのままとした。)の学校も各種学校として認可もした。
 ところが一年も経たないうちに日本政府は(一九四八年一月)「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という文部省教育局長の通達を出し、義務制学齢の各種学校は認めない、と不許可にしてしまい、この通達に従わない朝鮮学校に対して閉鎖を命じた(朝鮮学校閉鎖令=一九四八年三月)。これに対して朝鮮学校を守れとの反対運動が大きく展開されたが、その代表的な闘いが一六歳の少年が射殺されるという悲劇を生んだ阪神教育闘争であった。この闘いは既設の朝鮮人学校は私立学校として申請があれば条件付で認めるという文部省学校教育局長通達(「朝鮮人学校に関する問題について」)でいったん収束された。しかしこの妥協はたちまち日本政府によって反故にされてしまう。すなわち一九四九年一〇月、文部省管理局長、法務省特別審査局長通達「朝鮮学校に対する措置について」=在日本朝鮮人連盟(朝連)系の学校の閉鎖=が出され、九三校に閉鎖命令、二四五校に改組命令、それも二週間以内にやれとの不可能を地でいく、朝鮮学校をとにもかくにも閉鎖させてしまおうというものであった。この通達は実に日韓条約が締結されたのちの一九六六年一月、日韓法的地位協定の発効まで生き続けることになる。
 この閉鎖命令に対して民族学校を維持、再建していこうとの運動が各地で展開された。具体的には日本の公立学校の中に分散して守っていこうというかたち(公立学校の課外に民族学級を設置するなど)、あるいは自主学校を続けていったもの、更には学校閉鎖の形を取りつつも公立学校の分校を設置する形で民族学校を維持し続けたものもあった。
 この時期こうまで朝鮮学校つぶしの大弾圧がかけられたのは、朝鮮半島をめぐっての情勢が極度に緊張していこと、一九四八年には南部地域にアメリカに推戴された李承晩(イ・スンマン)による大韓民国、これに対抗した金日成(キム・イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国の成立により南北分断、東西対立の冷戦構造が生まれてきたこと(一九五〇年六月には朝鮮戦争が勃発)。日本国内では戦後の混乱期の中、労働争議、不審事件の多発(下山・松川・三鷹事件など)による社会不安が頂点に達しており、GHQによる占領政策の遂行に支障をきたしかねない情勢にあり、在日朝鮮人問題が治安対策の面から取り上げられGHQ・日本政府による弾圧が強行されたことにあった。在日本朝鮮人連盟を解散させ、在日朝鮮人にとって心の拠りどころとして民族のシンボル化していた朝鮮学校を完全な支配の下に置く必要があったことが上げられる。
 文部省は「朝鮮人の義務教育諸学校への就学について」という初等中等局長通達を出した。「就学義務はないが、『日本の法令を遵守』することを条件として入学許可を出し、『誓約書』を提出させる」という内容のものであるが(一九五三年二月)、この誓約書なるものはひどいもので、「入学の上は日本の法律を遵守し、その子女の教育に必要な諸経費については、絶対に迷惑をかけず、学校の指示に従います。誓約に違反したときは、退学させられても異議はありません」とあり、一方で学校閉鎖―学校を奪っておきながら他方で、日本の公立学校に恩恵的に入れてやるのだから義務は負わないと宣言している。この通達は驚くことに一九六六年一月の日韓法的地位及び待遇に関する協定の発効まで続き、さらに恩恵的に入学させるとの姿勢は一九九一年一月の日韓覚書の交換に伴う文部省初等中等局長通達(この内容については後述する)の時点まで効力を持ち続けたのである。(もっとも誓約書などについては、革新自治体の登場などにより、誓約書提出を強要されない、求めないなどと実質形骸化された学校もあったが、形式的には存続していた。)
 一九五五年五月、在日本朝鮮人総聯合会(総聯)が結成され、総聯の努力により民族学校(朝鮮人学校)が再建されることになる。一九六二年までに、記録によると七六校の朝鮮学校が再建され、さらに一九七一年時点まででは一三七校が各種学校として設立された。一九七五年には山陰朝鮮初中級学校が認可され、各地の朝鮮学園が運営する全ての学校(当時一六一校)が各種学校として認可されたことになった。
朝鮮学校閉鎖をねらった
「文部事務次官通達」と「外国人学校法案」
 このように日本政府による敵視、弾圧を受けながらも民族学校は、関係者の血のにじむ努力により、教育基盤の整備、発展を続けるのだが、一九六五年の日韓条約の締結で大きなターニングポイントを迎えることになる。
 六五年段階における日本政府の在日朝鮮人対策の本質を言い表したものとして次の文書があげられる。政府の治安対策の大元締めといえる内閣調査室(内調)が出している「調査月報」一九六五年七月号に掲載されている文書であるが、それによると「わが国に永住する異民族が、いつまでも異民族としてとどまることは、一種の少数民族として将来困難深刻な社会問題となることは明らかである。彼我双方の将来における生活と安定のために、これらのひとたちに対する同化政策が強調されるゆえんである。すなわち大いに帰化してもらうことである。・・・・南北のいずれを問わず彼らの行う在日の子弟に対する民族教育に対する対策が早急に確立されなければならないということができる。」
「最近において、ようやく政界の一部もこのような朝総聯の教育活動、特に日本の公費公有財産を使っての共産主義教育に対して、何とか是正すべき方策を見出したいとして動き出しているようである。この問題は文教問題として取り上げるより、閉鎖の実力行使をどうするかというような治安問題としての処理を考えねばならない」(傍点は筆者)
 露骨に、日本政府の他民族抑圧の思想、そしてその具現化が語られている文書である。まさにこの文書は、日本政府が明治以来作り上げてきた自己優位、朝鮮人蔑視観が語られ、実力行使も含む対処法がしめされている。朝鮮半島南部だけの戦後処理であり、本質的な解決ではなかったにせよ「日韓条約」締結が進められているその時に、である。
 この内調の方向性にもとづいて日韓条約の締結に伴う二つの文部次官通達が出される。すなわち、一九六五年一二月「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国の協定における教育関係事項の実施について」「朝鮮人のみを収容する教育施設の取扱」の文部次官通達が管轄行政である都道府県に発せられた。
 前者は在日朝鮮人子弟に「日本の公立小・中学校への入学、中学卒業後の上級学校への入学資格」を認めたもの・・・すなわち「入学を希望する者の義務教育への日本人同様の取扱」を定めたものであった。しかしその一方でこの通達の中で、(在日朝鮮人に対して)「教育課程の編成・実施について特別の取扱いをすべきでないこと」、いいかえるならば、「朝鮮民族の言語、文化、歴史についての教育をしてはならない」ことを指示している。民族教育の否定である。
 後者の通達ではより露骨に「朝鮮人のみを収容する公立小学校分校について、存続について検討すること、朝鮮人のみを収容する公立の小・中学校、分校、特別の学級は設置すべきでない」と通達し、さらに「私立学校については学校教育法第一条の学校として認可すべきでないこと」「朝鮮人としての民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、我が国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものと認められないので、これを各種学校として認可すべきでないこと」を指示している。まさに(日本以外の)民族教育は排除しろとの基本的な姿勢を明確にしたものであった。これが国際的な約束事―条約の締結―に伴う受益を与える見返りである。
 さらにあまりにもひどい内容であるがため国会へ提出されながらもついに成立しなかった「外国人学校法案」が実はこの二つの通達とセットで出されている。(この外国人学校法案は提出時には反対運動の高まりを受け廃案、以後、何度も法律制定が企図されたがついに成立する事はなかった。)
 この外国人学校法案によれば「わが国の憲法上の機関(内閣)が決定した施策をことさら非難する教育その他我が国の利益を害すると認められる教育を行ってはならない」と日本政府の施策に従順な教育を行う事を条件とし、「設置認可を文部大臣とし(高等学校以下の教育課程の学校と各種学校の許認可権は都道府県知事)、是正命令・閉鎖命令権を文部大臣に与え、命令に従わなければ懲役刑も含む罰則規定」まで持っている。このことは外国人学校を国の統制下に完全におこうというものであり、さらに付則において、すでに認可を受け(都道府県知事の)、活動している各種学校たる外国人学校について、時限を切ってその認可の失効をうたっている。まさに現存している朝鮮学校を露骨に廃校にしようという狙いをもったものであったし、日本政府の、他民族の民族教育は一切否定すると言う、見事なまでの本質を表現したものであった。
いまだ文科省を覆い続ける民族学校差別の亡霊
 この二つの通達はどうなっているのか。二〇〇〇年六月の福島瑞穂議員の質問主意書に対して「(六五年事務次官通達は)平成一二年(一九九九年)四月の地方分権一括法の施行によりその効力は失っている」と政府答弁を行っている。この答弁は、機関委任事務であった各種学校の許認可が、機関委任事務の廃止により「文部省の直接監督にはない」といいつのり、その本質について一切口をつぐんでいるものだ。一九九六年八月の山口県下関朝鮮学校の改築問題のときに、自治体、大蔵省が「特定寄付金控除」を了としたものの、文部官僚が「朝鮮人としての民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、我が国の公益に資するものではない」と言い放ち許可しなかった事例を見るときに、あるいは今回のアジア系民族学校を排除した上での外国人学校への税制優遇措置をとった事例といい、内調文書、六五年通達と外国人学校法案にあらわれた精神はそのまま生き続けていることを証明するもの以外の何ものでもない。まさに四〇年近く前の亡霊がまだ文科省を包み込んでいる、生きている亡霊として。
 民族学校をめぐる文部省の姿勢に変化らしき兆しが見えたのは、一九九一年一月の日韓覚書に、「学校の課外でおこなわれている韓国語や韓国文化等の学習が、今後とも支障なく行われるよう日本国政府として配慮する」という項目が入れられ、それにともなう文部省初等中等局長通知「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する協議における教育関係事項の実施について」が出され、「就学案内」を在日朝鮮人にも発給するようになったことがあげられる。
 文部省のかたくななまでの民族教育排除の姿勢は、一九六七‐六八年の東京都知事による朝鮮大学校の認可問題(都の認可方針に対して、文部省が否定する強い指導を行ったが、最後は美濃部知事の決断により認可)に象徴されるように、住民と直接かかわる自治体によって突き崩されてきた(もちろん処遇改善を求める運動が展開されたがゆえにであるが)。朝鮮学校を各種学校として認可すべきでないとする文部省通達があるにもかかわらず各種学校として認可され、一九七〇年の東京都を皮切りに現在では、金額の大小、名目の違いはあるものの、民族学校が設立されている全都道府県において補助金が給付されている。また、大学入学受験資格についても私立学校、公立学校を中心に四二・四パーセントが認めている状況が生まれている。(二〇〇一年一月民全連調べ、国立大学も分母に参入)。
 それぞれの民族学校、外国人学校、民族教育を認めようという動きは、鈍い、のろい歩みであっても確実に前に進んでいる。今回の大学入学受験資格についての文科省方針に対する広範な反撃は、それを証明するものであろう。
朝鮮人蔑視観の背景にあるものは何か
 以上、朝鮮学校を中心に文部省(日本政府)の対応とあわせて民族学校の歴史について振り返ってみた。そこでここでは、朝鮮学校に対する敵意、あるいは朝鮮人に対する蔑視観の背景にあるものについて考えてみたい。
 朝鮮人蔑視観の源流と思われるものに、日本古代国家の成立を記録する「日本書紀」に色濃くあらわれる蕃国思想がある。ヤマト王朝を基盤として成立した古代国家は、王朝内の権力闘争を経由しながら、壬申の乱における天武天皇の勝利により律令国家の道を歩みはじめるのであるが、この時期に成立したのが「日本書紀」であり、この書に貫かれた思想が自らを全ての中心に置くという中華思想であった。即ち、自らにまつらわぬ者(服属しない者)、自らの勢力範囲に治まらないものを夷荻と称し、差別、蔑視の対象とした。あわせて、朝鮮半島に統一国家として登場した新羅を強力なライバル、敵として認識し、それに対する優位性を示すため、あるいは従わせたいとの願望も含めて、蕃国としての立場を強調するようになる。その表現が朝鮮半島古代国家との通商、交渉を日本への「朝貢」という形での記録化になっている。言い換えるならば、日本国家の文化、位置を高いものに置き、周りを一段と低い蕃国としたのである。朝鮮半島からの渡来人による新しい技術、文化を受容しながらも。
 この思想は明治維新、明治政府の樹立により、更に強固な皇国史観を国家的思想統一へと発展させ、日清・日露戦争への動員の道、朝鮮の植民地支配、アジア侵略の道筋への思想となり、国民皆教育(義務教育の徹底)の中で強烈に国民の中に植え付けられた。この思想は福沢諭吉の脱亜入欧論に代表される、日本人優位、アジア蔑視の思想となり、戦争への道へと駆り立てる思想動員ともなったのである。
 植民地支配は朝鮮半島における収奪を強めるものであったが、そのことはまた、朝鮮で生活手段を奪われた朝鮮人の日本への移入を招き、それがまた朝鮮人蔑視をさらに増幅させる要因となり、一方で、朝鮮人問題をすぐれて治安維持の問題として政府に意識させることにもつながっていた。
 一九四五年、日本は敗戦を迎えたが、それを契機にアメリカ流の民主主義を手にすることになった。が、しかしそれは、確かに皇国史観は否定されたが、国体の護持の名の下における不徹底なものであり、日本はアメリカに負けたのであってアジアに敗れたのではないと言う深層意識を温存したまま、むしろ欧米崇拝・アジア蔑視は強まったとさえいえる。
 日本を占領したアメリカ軍は、GHQによる占領政策の貫徹のため、在日朝鮮人問題を治安維持のためととらえ、それは日本の為政者にとっても都合のよいものであった。国際的には東西の冷戦構造がはじまり、中国に人民共和国が成立し、朝鮮半島では南部にアメリカの意を受けた大韓民国が、北部には東側陣営に属する朝鮮民主主義人民共和国が成立、朝鮮戦争に突入した。ここに日米の政府は、戦争遂行のためとして在日朝鮮人に権利を与えない、弾圧を加えていくことの意味付けを行い、戦前のままの姿による、日本国内における朝鮮人への対応が続けられることになった。
 朝鮮戦争が休戦となり、一旦戦火はやんだが、冷戦構造のもと日本は西側陣営の一員として中国・朝鮮敵視政策を取り続け、それはまた、日本が過去の歴史を振り返ることなく、植民地支配、アジア侵略についての反省もしないという心地よい立場に居続ける事でもあった。在日朝鮮人への弾圧、民族学校差別もその延長線上で戦前とかわりなく続くことでもあった。中国との国交を回復したあとでも朝鮮敵視政策はつづけられ、それは今なおこの国の基本姿勢となっており、朝鮮人蔑視の合理的理由として内面に隠されている。
蔑視の解消は「民際交流」から
 通信手段と交通手段の発達は、地球上の距離感を縮めたが、その事は世界各地の情報を直ちに手にする事になり、世界の思想もまた入ってくることにつながり、共生の思想をまた広げる事にもなった。それは日本も例外でなく、また韓国の民主化により、韓国の人々と日本人との民衆レベルの交流が深まる中で日本人の意識のなかに朝鮮人蔑視の思想の転換を求めることにもつながってきている。それは民族学校の処遇改善の運動に日本人が数多く参加しはじめたことにも明らかである。
 しかしながらどこかに敵を作ることにより、軍備増強、戦争を出来る国へとの目標を持つ日本政府にとって、それは必ずしも好ましい事ではなく、また、アメリカの戦略にとっても都合の良いことではないとの理由から、マスメディアを総動員しての朝鮮バッシング、朝鮮民主主義人民共和国への敵視政策は、今日なお続けられている。いやむしろ激しくなっているのが現状ではないだろうか。
 この波にあおられ胸の奥深く沈み込まされているアジア蔑視観とりわけ朝鮮人に対する蔑視観が引き出されることになり、朝鮮をめぐる事件報道がなされるたび各地域で朝鮮学校生徒に対する暴言・暴行事件が頻繁に繰り返され、インターネットを使っての反朝鮮のすさまじいばかりのキャンペーンと攻撃が波状的に行われ、それがまた、朝鮮人蔑視の増幅となって全体化されようとしている。
 このような現状の中でどうすれば日本人と朝鮮人の友情を築きあげることが出来るのか、民族学校差別をなくすことが出来るのか。
 声をあげつづけること、行動を積み重ねることは当たり前であるが、それにまして必要なことは、上田正昭氏が提唱されている「民際交流」即ち、国・民族の垣根を乗り越えて民衆と民衆が交流を深めることである。まず、民族学校をおとずれることであり、民族教育がどのようにおこなわれているのか自分の目で見、耳で聞くことである。また、南北を問わず朝鮮半島をおとずれ、これも自分の目で見て、耳で聞いて確認することが最も大切であり、最も早い道であろう。
 紙数も尽きて、民族教育が、(どの民族でもあっても)保障されなければならないという、理念的なことについて触れる余裕がなくなったが、一言だけ触れておく。
「民族教育はその民族が持っている言語・歴史・文化・伝統を学び、継承し発展させるための教育であり、したがってその教育に関して、他の民族や多数者が介入したり、妨害したりすることは許されない、むしろ多数者や他の民族は、その教育を受けることに最大限の支援をすることが、共生をはかることの基礎である」。
 これについては拙論「民族学校を考える」(GENTEN 一九九六年特別号 都市問題研究所発行 とホームページ「サロン吉田山 民族学校を考える」に所収)において詳論しているのでそちらを参照されたい。
 最後に「在日が住みやすい社会こそが、私たちにとって住みやすい社会」との一言を書き添えてむすびとしたい。
【引用・参考文献】
在日本朝鮮人教育会編『在日朝鮮人の民族教育の権利』同会一九九六年
高賛侑『国際化時代の民族教育』東方出版一九九六年
山ア高哉講演「日本における民族教育の歴史と今日的課題」
都市問題研究所 『GENTEN二〇号』一九九七年
江原 護(えばら まもる)
一九四四年京都府生まれ。政治活動・中小企業運動、在日朝鮮人問題などに関わり、新聞編集者、議員秘書を経て一九九〇年都市問題研究所研究員。現在、都市問題研究所主任研究員、民族学校を考える会事務局長。文部科学省による、民族学校への差別的処遇撤廃のための活動などに取り組んでいる。主な著述に「参政権問題を考える」「民族学校を考える」「出雲の古代を歩く」「京都の古墳を訪ねて」、著書「出雲の神々に魅せられて」など。