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全国靖国・政教分離訴訟
交流集会 参加報告
1 はじめに
 私は、二〇〇一年一一月一日に大阪で提訴された「小泉首相靖国神社参拝違憲アジア訴訟」および同松山訴訟に訴訟代理人として参加してきた。二〇〇一年内に他に福岡、東京、千葉で同趣旨の訴訟が提起されたが、これまで大阪での政教分離訴訟に参加してきた沖縄出身者の「沖縄で提訴したい」との熱い思いがあり、沖縄訴訟は二〇〇二年九月三〇日にいよいよ提訴されることとなった。
 沖縄は、先の日本の侵略戦争で、日本軍と連合軍(アメリカ軍)との地上での激戦が行われた地である。また、その後の沖縄は、連合軍の統治下に入る一方、日本本土においては沖縄人差別の対象となって、苦難の道を歩むことを余儀なくされてきた。
 この地での、首相の戦争賛美の行為を問う訴訟の提起を意義あるものとし、例年各地で開催されているという「全国靖国・政教分離訴訟交流集会」が、本年は沖縄で七月一八日から二〇日にかけて開催されることとなった。
 私は昨年の集会には参加しなかったが、今年は「沖縄で」ということに惹かれて、その話があったときから参加を決めた。
 というのも、私はこれまで沖縄に行ったことがなく、沖縄の歴史自体、まともに勉強したことがなかったからである。沖縄訴訟の訴状を見せてもらう程度であった。
 幸い、今年のその期間はどうしても抜けられないような仕事もない(弁護士という仕事上、急用が入ることは常にあるし、やはり起訴前弁護を受けてしまうとその後はしばらく気が抜けない。やはり身体拘束がされている場合は警察・検察も裁判所も弁護士も休みなしである。弁護士同士の持ちつ持たれつで仕事を回し合って都合を付ける技術を、ようやく最近身につけつつある)。
 予備知識を付ける余裕は全くなかったが、ともかく、上っ面の観光をしに行くのではない何かを掴みに、七月一八日、いよいよ出かけることになった。
2 前夜集会・沖縄の第一印象(一八日夜)
 七月一八日、この日は午前が「台湾訴訟」、午後一番で「アジア訴訟」の尋問前最後の弁論手続と連続であった。台湾訴訟では、台湾から靖国神社を信奉する元「高砂義勇隊」遺族らが「靖国応援団」(靖国神社を被告の地位から下ろすことを目的として、訴訟に「補助参加申し出」を繰り返している団体)に連れられて傍聴席に座り、台湾人同士の諍いを仕組まれる事態もあった。気疲れのする法廷であった。
 ともかく法廷を終え、訴訟団参加者は団体で関空まで駆けつけた。そして二時間弱のフライト。
 那覇空港着。きれいな蘭の鉢植えが両側に並ぶ空港内を出ると・・・・・・むっと蒸し暑い! やはり「島」だと思わせる。それに、明るい! もう六時になるのに、「四時」と言われても疑わないくらい日差しがきつい!
 それから集会前夜の懇親会のある読谷村(よみたんそん)・残波岬(ざんぱみさき)へ、沖縄訴訟団団長・金城実さんのアトリエから来てくださった辻田さんのお迎えの車で急いだ。とはいえ道路はラッシュアワーらしく結構渋滞している。沖縄には鉄道がないから車が唯一の足だ。モノレール建設工事をしていたが、那覇空港から首里までで、九月一日開通とのこと。辻田さんは大阪の人で、「こっちの人は高速道路があっても使わないんですよ。そんなものにお金を使って何をそんなに急ぐんだろう、てね。」と言いながら、ようやく那覇市内の渋滞を抜け、高速道路へ向かう。「一般道を通る方が基地を見られるんだけどね、もう時間がないから」
 窓の外には私たちには見慣れぬ重厚なコンクリート造りのマンションが。屋上には水タンクも載っている。「台風が来るからね。」と丹羽雅雄弁護士。
 まだ食べ物はあるのかと心配しながら九時ころようやく残波岬いこいの広場へ到着。大丈夫、ちゃんとバーベキューの具は残してもらってあった。
 全国集会は例年行われているようで、各地からの参加者は長年闘ってきた同志として再会を喜び合い、前夜集会は既に熱く盛り上がりを見せた。新参の私はきょろきょろ、それでもこれまでの訴訟団・弁護団交流で少しは顔見知りの人々がいたし、たくさんの人と面識を持った。潮の匂いがして肌がべたべた、でも夜風が吹いて心地よい夜だった。
 二次会は金城実さんのアトリエで、という流れになったが、山内さん(大阪訴訟団事務局)と私は四国訴訟団のご住職お二人とホテルで二次会をして、早々に寝ることにした。
 ハードな一日だったし、翌日がメインイベントなので。
3 集会とフィールドワーク・沖縄戦体験聞き取り(一九日)
(1)午前の基調講演と各地報告
 翌一九日、午前九時から午後二時ころまでが読谷文化センターでの集会、基調講演や各地の訴訟の報告であった。


交流集会は盛況であった。安仁屋さんの講演は沖縄から見た天皇・靖国の問題を鋭くえぐった(本文参照)。

A 安仁屋政昭氏の基調講演
 基調講演は、元沖縄国際大学教授の安仁屋政昭氏が「天皇制と沖縄県民の心」を中心テーマとして話された。
 安仁屋氏の講演は、琉球王国に薩摩藩が支配を及ぼしていた時代の説明から始まり、沖縄に対する皇民化政策が琉球王国を廃止して「琉球藩」を設置した「琉球処分」から始まったと解説。
 沖縄人は当初徴兵忌避などが多く「忠誠心がない」と言われてきたが、徹底した標準語化教育、改姓改名運動、軍事思想教育により取り込まれていった。今でも「皇室の恩恵」を示すものは山や橋の名前、記念碑等に残っているという。
 そして沖縄戦。戦争終末期の沖縄戦とは、「出血消耗によって本土決戦準備・終戦交渉の時間を稼ぎ、国体護持をはかることであった」と意義づけられた。だから、沖縄人は天皇の軍隊のために捨て石にされたのだと。
 「集団自決という名の集団死」が起こった原因は、「天皇の軍隊による強制・誘導」「それに連なる地元の在郷軍人会・大政翼賛会・国防婦人会による強制」であった。しかし、教科書検定は「集団自決」を書かせようとする。沖縄人を戦争協力者に仕立て、戦没者援護法により金を支給して不満を逸らせるための手段である。
 敗戦後。既に日本国憲法の施行後である一九四七年九月、天皇は対米メッセージとして「琉球諸島を長期にわたり米軍が占領支配することを希望する」と述べた。天皇の政治的発言であり、憲法の象徴天皇制に明らかに違反する(ただしこのことは当時あまり議論されなかったし、資料はアメリカにあって公開されていないとのことである)。
 それでも、沖縄人は「日の丸」を復帰のシンボルとしてきたし、米軍は「日の丸」を弾圧した。沖縄人は「日の丸」が侵略の象徴だったということは考えていなかった。一九六〇年安保のころ、本土との交流が進む中で、ようやく考えが変わってきたとのことである。
 安仁屋氏の話は、沖縄での靖国訴訟提起を画期的なものと評価し、沖縄人が自らを天皇制に支配されてきた歴史の認識と克服に向かって進むものとなるよう熱く応援する内容であった。
B 各地訴訟の報告
 次に各地訴訟の報告。メモを基に簡単にまとめておく。
 千葉訴訟について、植竹和弘弁護士から。今の裁判長が栄転待ちでやる気がなく、進み方が遅い、それなら他の裁判官に判決を書いてもらった方が良いかも知れない。千葉は「国賠」一本(違憲確認とか差止請求といった請求はしていない)なので、早く判決が出ることもあり得る。訴訟上の問題は「損害論」の立証。慰謝料請求の形で訴訟をしているので、「小泉首相の靖国参拝によりいかに精神的苦痛を受けたか」を具体的にせねばならない(この事情はどこの靖国訴訟にも共通である)。この夏に原告から「被害聞き取り」をする。学者証言については、大阪で平野教授の証言が決定したということで、同教授には大嘗祭即位の礼違憲訴訟で意見書を書いてもらった経緯もあり、また意見書を書いてもらおうと思っている。
 東京訴訟について、大山勇一弁護士から。原告意見陳述が裁判所から厳しく規制されているため、裁判官の交代する弁論更新の機会を狙っては行っている。あと、千葉同様、損害論各論の準備。政教分離人権説での構成を考えている。高橋哲哉教授が近著「心と戦争」で後半三分の一を靖国神社と戦争の関係で記述されているので、学者証人に立ってもらうよう要請し、内諾を得ている。
 大阪「アジア訴訟」について、加島宏弁護士から。四月以降で結審までのスケジュールが決まっている。裁判所から「お呼び出し」が来て、動向読みのため協議に応じることにしたところ、「門前払い」ではなく証拠調べまで進むということで話がついた。七月期日までに主張を全部出すこととし、一〇月六日に尋問が予定されている。平野教授の採用は決まった。原告五名も採用。被告本人小泉は却下、仕方ない。しかし、靖国神社宮司も申請したのに不採用にされた。裁判所の理由は「原告の準備書面一一や『靖国の戦後史』(証拠として提出した、田中伸尚氏の著作(岩波新書)で詳細に主張立証されていますしね」とのこと。一一月八日に最終の口頭弁論期日。「靖国応援団」からの補助参加の件は、第六次参加申出までされている。台湾から協力者をリクルートできたらしい。「靖国応援団」の意図は「宗教的人格権は認められない。原告のを認めるなら申立人にもある(首相に靖国参拝をしてもらう権利なるものが)ことになる。」というものであるが、それは政教分離違反の参拝を求める権利ということで、裁判所も「憲法違反の請求は認められない」と言えばいいのにそう言わない。「申立人主張の宗教的人格権は認められない」という言い方をするだけである。
 台湾訴訟について、大阪訴訟団の菱木政晴氏から。第一回の意見陳述は、台湾原住民族の人がSARS関連で渡日できず、在日の台湾人原告と、労働者(在日コリアンでもある)原告が行った。第二回(昨日)、台湾人が一〇名も渡日。補助参加し、意見陳述をしたいと言い、今回、訴訟上認められないところを無理にしようとした。当然裁判所は認めず、引き回された台湾人たちは不満の矛先を裁判所と原告らに向けた。「靖国応援団」はひどい演出をする。
 松山訴訟について、草薙順一弁護士から。準備書面の提出予定について。また、尋問での学者証人には、諸根貞夫教授(愛媛玉串料違憲最高裁判決との関連で、靖国参拝違憲を鮮明に)から快諾。阿満利麿教授(明治学院大学、日本思想史専門)。大江志乃夫名誉教授にも了解を得ている。また、尋問には小泉本人、靖国神社代表を申請し、また靖国神社現場検証の申し出もする。靖国神社がその主張どおり本当に「参拝に来た首相と一般の人を区別できない」かどうか。実際には、小泉の参拝の折りには、靖国神社は「天皇にしか使わせない特別の通路」を通らせたとの情報がある。
 福岡・山口訴訟について、上野雅生弁護士から。原告にクリスチャンと在日の人が多く、クリスチャン原告は信者である上野弁護士が、在日原告は李弁護士が担当してやっている。昨年、佐賀で自治会からの神社関係支出を違憲と認めた判決が出たが、これを書いた裁判官が移転で福岡へ来ているのが追い風。損害主張は他と同様準備中。国は、法廷でいつも「早期に主張を終われ。尋問があっても反対尋問はしない。」という姿勢。小泉は個人責任がない旨を主張しているが、裁判所は特に小泉だけ分離して判決をする気はないらしい。原告団長の群島恒昭氏からの付け加えとして、佐賀の裁判のその後について。山口から原告の梅田さん。真宗門徒で、自治会費から神社氏子費を出していたという問題で一〇年交渉を頑張り、法務局の人権擁護部局にも入ってもらって「今年からとらなくなった」との報告。
 沖縄訴訟について、三宅俊司弁護士から。提訴に至る産みの苦しみがあった。自分は広島の出身であり、「なぜ沖縄で靖国か?」の疑問。「あれは本土のもの。沖縄には先祖崇拝の伝統がある。」戦没者援護法の適用はすぐされたが、被爆者援護法等は遅れた。被害者・加害者が同等に取り扱われている。訴状はかなり詳細だが、「一坪反戦地主会」が以前本人訴訟を起こしたときの書面でも相当「沖縄の歴史」に関する記述がされていた。それらの集大成として今回の訴状は作成された。大阪からも弁護士三名の応援を得て、沖縄の弁護士はそれぞれ他の事件(嘉手納基地訴訟等)を抱えつつの訴訟運営である。原告は本土から二一名、沖縄から四〇名。これまで四回の口頭弁論。第一回直前に二名の男性から補助参加申出がされたが、裁判所から理由が明らかでないと却下された。一方、国は、宗教的人格権はそもそも法的権利性がなく、審理テーマにするのはおかしいという趣旨と思われるが、大阪で「靖国応援団」による補助参加申出を却下した大阪地裁の決定書をまとめて証拠として出してきた。
 神奈川・バンザイ訴訟について、駒塚氏から。バンザイ訴訟とは、一九九〇年即位の礼大嘗祭への知事と議長の公費による参加が違憲であるとして返還を求めた住民訴訟。当時の海部首相が天皇に対し万歳三唱をしたことが象徴的であるとしてネーミング。横浜地裁は「明らかに違憲違法な行為への参加には公費支出できない」との判断基準で、目的効果基準により「即位の礼」は宗教的行為だが関連性が薄い(明らかに違憲とは言えない)と判断してしまった。「大嘗祭」は私的行為であるので直に参列行為につき目的効果基準で合憲とした。原告団は控訴して、主張補充をしてきたが、昨年九月に東京高裁で敗訴判決。抜き打ち的に判断枠組みが変わり、「参加」そのものが判断対象であって儀式が違憲かどうかは判断する必要がないとされた。裁判所は原告側の主張整理を見事に的確にまとめている(つまり理解している)のだが、そこに触れない判決。上告段階ではいろいろ判決を論難し、今、原告団が最高裁に「口頭弁論開け」を要請する署名を集めて交渉中。一八日、最高裁書記官が原告団と面会し、「少なくとも一週間前に事前予約、一七名以内、三〇分以内、一カ月に一度」との条件の下に書記官に会えるとのこと。判決調査をする調査官には面会は認めないが、書記官がそこで聞いたことは「主席書記官に伝えます」とのこと。
 東京・SD訴訟(即位の礼・大嘗祭違憲訴訟の略)について、再度植竹弁護士から。一〇月三日が控訴審最終弁論。原審では、大嘗祭は私的行為であると逃げられた。控訴審では原告側は私的行為でも問題だとの立論をし、横田教授の証人尋問と宮内庁への調査嘱託も申請した。昨年一二月に裁判官交代があり、伊藤裁判官から相良裁判官(元司法研修所教官で評判よい)に代わった。右陪席の三代川裁判官も評判が良い。三代川裁判官と面談すると、二つの最高裁判決(大分・抜穂の儀と、鹿児島大嘗祭支出違憲住民訴訟での合憲判決)につき、「事実審裁判官としては困っちゃいますよね。」これなら感触は悪くない。宮内庁への嘱託はさておき、学者証人の申出等は認めさせたい。
 大分・抜穂の儀違憲訴訟について、河野聡弁護士から。最高裁の合憲・敗訴判決が昨年七月に出てしまい、あと鹿児島大嘗祭支出違憲住民訴訟も最高裁で敗訴判決が出た。これまでの記録集を作った。
C 討論
 昼食の後の討論は、時間が押したために一時間程度となったが、各地靖国訴訟とも同様の問題を抱えることから、「損害論の構成について」「裁判所対策について」また「訴訟の水準を揃えるため、訴訟団間のネットメーリングの構築についての提案」等がなされた。
(2)午後のフィールドワーク
 二時過ぎにセンターを出て、あの「日の丸」を焼き捨てた知花昌一さんのご案内で読谷村を回った。座喜味城跡という琉球王朝の古城の跡から、村が一望できる。村教育委員会職員の小橋川氏から、村に日本軍の飛行場ができ、次に米軍が上陸してきて瞬く間に村を基地で埋めた経過が航空写真で説明された。証言をまとめた「読谷村史」(大変なボリュームでした)もできたとのこと。貴重な資料である。HPでも公開しているそうである。
 なお、読谷村に米軍が上陸したときには、日本軍の主力は南部へ移動していたため、米軍が住民を大量に殺戮するという事態はなかったそうである。「日本軍と行動を共にした住民が犠牲になっています。これははっきりしています。」と小橋川氏。
 次がチビチリガマとシムクガマ(いずれも鍾乳洞で、住民の避難場所に使われた)。今回は遺族の方のご厚意でチビチリガマの中に入らせていただくことができた。ガラス瓶や化粧道具、「集団自決」に使われたと思われる包丁、そして未だに茶色に変色し残る人骨・・。
 チビチリガマでは避難していた半分以上の住民が「集団自決」という名のもと家族で互いを殺し合うに至ったのである。これを促したのは、元従軍看護婦だった娘さんの「鬼畜米英に捕まると恐ろしい辱めを受け虐殺される」との話から、とのこと。実は、その話は日本軍が植民地で住民に対して行った事実であったため、現実味を帯びて住民に「自決」を迫ったのである。


遺族のご厚意で、チビチリガマの中に入った。天然の鍾乳洞が防空壕代わりに使われていたが、ここにぎっしりと避難していた住民の多くが家族同士で命を絶つしかない状況に追い込まれた。

 それに対し、シムクガマに避難した住民は、アメリカ帰りのお爺さん二人の「自分から降参して捕虜になればひどいことはしない」という説得により皆がガマを出て捕虜となり、「集団自決」に至らなかったそうである。
 しかし、ガマの中や木陰は涼しかったけれど、日差しは刺すように強く、皆汗びっしょりになった。蚊にもつきまとわれた。
 移動のバスから見て印象的だったもの、住居の間に点在する亀甲墓、サトウキビ畑、その畑の土の赤いこと。畑の向こうに「象のオリ」(米軍楚辺通信所)。
(3)夕方の戦争体験聞き取り
 夕方、「戦争体験の聞き取り」のため会場「むら咲むら」へ。大汗をかいたTシャツによく効いた冷房を浴びて風邪を引きかけながら、一班一〇人程度で体験者の方の話を聞いた。
 私の班では、渡嘉敷島で「集団自決」のためお母さんと妹弟を手に掛けたという金城重明さんの話を伺った。一六歳だった金城さんは、「兄とともに、母を大きな石で後頭部を殴って殺した。母も泣いていた。でも妹弟はどうやって殺したか記憶がない」・・・・・・封印された記憶。冷静に振り返ることなど生涯できないだろう。しかし金城さんは「家永教科書訴訟」で証言をしたときから、自己の体験を語ることにしたそうである。
 なお、後の懇親会では、私は山口の梅田さんから「自治会が神社費用を支出するのを一〇年掛けて止めさせた」粘りの経験を直接にお聞きすることができた。
 夜は金城実さんのアトリエに行きたかったのだが、四国訴訟団と松山訴訟の打合せをしていたら、またチャンスを逃してしまった。でも本当は昼間にレリーフを見せていただきたかったので、また次の機会ということで。
4 米軍基地、そして摩文仁の丘(二〇日)
 翌二〇日、自由参加で山内栄さん(琉球大学の講師で、沖縄平和ネットワークのメンバー)のガイドによるツアー。貸し切りバスを用意してもらったのに、途中合流の金城実さんを合わせても総勢一〇名というアットホームな企画だった。
 読谷から、トリイステーション(本当に白い鳥居が立っている、でも青い星のマークが? 米軍は天皇と同様、犯されざるものである、という意味づけだそうである)の横を通り、石油備蓄基地、そして嘉手納基地に近い北谷町(ちゃたんちょう)の浜へ。
 山内氏の解説では、トリイステーションは海兵隊の基地で、「九・一一テロ」の前である八月中旬から、海兵隊がアフガニスタン方面に出向いていたという情報がリークされているという。タリバーン政権を倒す策動をしていた証左であるというのである。
 嘉手納基地は日曜だったので離着陸がなく静かだったが、平日は「難聴のおそれあり、保護具を着用せよ」と地域自治会が看板を出すほどの騒音にさらされる町である。防衛施設庁が住民を立ち退きさせ、その跡地には体裁を整えるべく植物を植え付けて「植栽事業」などと銘打ち、看板を立てている。嘉手納基地騒音があるだけに土地の収用価格も低く、他の土地に代替地を求めるには自腹を切らないといけないそうである。立ち退きをしない世帯には「防音装置(二重窓)」の費用が出されるが、窓を閉め切って過ごすにはエアコンが欠かせない。このエアコンの電気代は補助されないので、実際には窓を開けて騒音を浴びながら過ごさざるを得ないそうである。
 また、この浜には、沖縄戦の際に連合軍が「土地の形が変わるほど」の艦砲射撃を加えた上で一斉上陸をしてきたという記念碑が建っていた。沖縄住民の暮らしを一気に戦場へと叩き込んだ苦難の始まりに思いを馳せる。
 そして、今ではどの道を走ったのか再現できないのだが、また米軍基地を両側に見ながら、普天間基地に隣接する「佐喜眞美術館」へ向かう。米軍基地は広大な土地を占め、宿舎は兵卒用でも、一二〇uの広さがあるという。将校用はその二倍近い面積とか。基地の名前には沖縄戦で落命した将校の名前(フォート・バックナー等)を付け、「この基地は沖縄戦で我々の血をあがなって獲得したものだ」との意味づけをされている。「占領意識そのものです」と山内氏。
 「佐喜眞美術館」は、佐喜眞道夫館長が普天間基地と交渉の末、土地の払い下げを受けて作った私営の美術館である。基地と隣接するだけに、「美術館建設目的」と用途を制限されて認められたという。館長夫妻の想いが隅々まで行き届いた空間に気持ちが落ち着く。
 ここには丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」ほかを常設している。沖縄戦の意味について、丸木夫妻がメッセージを込めて創作されたことが館長さんの説明でよく分かった。私にとっては「沖縄戦」をイメージとして知ることができた初めての機会だった。もし読者の方が美術館に寄ることを計画されているなら、予め館長さんの予定を伺って説明をしてもらうことをお勧めする。修学旅行の学生にもよく説明をしているそうである。
 屋上に上がらせてもらうことができ、ここからは普天間基地がよく見える。やはり日曜なのでヘリコプターの離発着はなかった。下を覗くと、基地内に亀甲墓が二つ見えた。地元の人のもので、基地側も供養に訪れる住民を黙認しているという。
 昼食の後、一路、南部の摩文仁(まぶに)の丘へ。平和祈念資料館は「到底時間がない」と入らず、その裏にある「韓国人慰霊碑」を見学し、資料館建て直しや「平和の礎(いしじ)」建設の経緯を伺った。山内氏の説明では、平和祈念資料館は日本復帰後に初代のものが建設されたが、玄関に日の丸を飾る等、皇族を意識した内容になっていた。その後大田県政の下で今の資料館が場所を移して建てられ、今のところは陳列内容にも問題のないように監視できているが、入館者の意向により陳列内容は変わっていってしまう、だから入館の際には積極的に陳列内容の評価や意見を出してください、という話だった。
 摩文仁の丘は、沖縄戦の最終盤、既に日本軍司令官が自決してしまって統率の効かなくなった日本軍敗残兵とともに北部からの連合軍の侵攻に追われ、沖縄住民も多数が断崖から飛び降りて「自決」を余儀なくされた場所である。海が血に染まったという。
 その丘に向かって、軍人・非軍人・国籍を問わず、沖縄戦で亡くなった人を漏らさず慰霊しようと今も黒い石板に名前が刻まれ続ける平和の礎。住民は、一族が全滅し戸籍も焼失して正確な名前が分からない人が多数。「妻」「次女」あるいは「コーちゃん」などと記載されて、それでも沖縄戦で命を散らした一人一人がその存在を留めている。大量に徴用されてきたはずの朝鮮の人たちの名はまだわずかである。調査と、遺族への「名を刻む」ことへの説得に時間が掛かっているそうだ。「女性の名は一人もないのです。名前が分からないのか・・・・・・」と山内氏。
 あまりにも駆け足だったが、午後三時に那覇空港に到着して解散となった。案内付きで初心者には最高の企画であった。次はもっとゆっくり、平和祈念資料館に来なければならない。摩文仁の丘から海と絶壁も目に留めたかった。
5 追記・・出発までにしたこと
 午後三時に解散してから五時四〇分のフライトまでは時間がある。東京訴訟団事務局の岡田さんと大阪の井上弁護士を誘い、那覇市内の国際市場まで出かけた。しかし井上弁護士は「酒にしか興味がない」ということで途中でお別れし、女二人で市場巡り。おみやげに買ったもの、ゴーヤの漬け物、豚耳・くらげ・海草の漬け物、乾燥あおさ(みそ汁に入れて磯の味)、海ぶどう(小さいブドウの形をした海草、事務所へのみやげで好評。)、マンゴー、生さとうきび。休憩してゴーヤジュース(リンゴジュースで割ってあったが、それでも苦い!!)。 那覇市立壺屋焼物博物館にも寄ったが、全然時間なし。
 急いで空港へ戻りながら、既に反省モード。「もう少し勉強してから来たらよかった・・・・・・またゆっくり来なくちゃ。」
 沖縄訴訟団他の皆様、貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。
大橋さゆり(おおはし さゆり)
一九九九年四月弁護士登録。二〇〇二年九月より女性二人の「大阪ふたば法律事務所」開設。「小泉靖国参拝訴訟」では大阪と松山の訴訟代理人。ほか大阪弁護士会人権擁護委員会で野宿者や刑務所処遇問題に関わる。女性・労働・外国人問題にもとりくむ。