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核と人類は共存できない
― 一被爆者の想い ―
 一九四五年八月六日、九日とヒロシマ、ナガサキに人類最初の原爆が投下された。その残虐非道な実態が明らかにされてから五八年を過ぎた今日、この悪魔の兵器が無くせないどころか拡大の一途をたどっている、といっても過言ではない状況である。
 私は、最初の原爆投下で被爆した者であるという立場から、「核と人類は共存できない」ということを訴えたいと思う。
私の被爆
 ヒロシマに原爆が投下された時、私は小学校五年生だった。
 当時、田舎に疎開していた私は、母と二人で広島市内の実家に帰る途中、超満員の市内電車の中で、爆心からわずか七五〇メートル地点である八丁堀で原爆の洗礼を受けた。この地点での被爆者の死亡率は九〇%であり、私が現在まで生きているのは、いろんな条件が重なった結果で、奇跡的だと思う。
 電車は風速二〇〇メートル以上の爆風を受け、窓ガラスは木っ端微塵になった。電車は大破し、窓側の乗客は、割れたガラスや打撲で血だらけになり、阿鼻叫喚の地獄状態となった。幸いスシ詰の人垣に囲まれた母と私は、たいした外傷も無いようで、倒れた人々を踏み分けながら車外に出た。
 車外は爆風によって起こされた土埃で、昼間なのに真っ暗だった。
 埃が徐々におさまってようやくあたりを見回すと、電車の前方に、当時広島で一番の高層建築であった福屋百貨店(八階建)が見えるだけで、北と東の方向は崩れ落ちてうず高く積もった建物の残骸だけだった。
 母と私は本能的に、爆心方向にあった実家には向かわず、祖母の家のあった北に向かった。
 夢中で祖母の家に逃れていく途中で、最初に気づいたのは、前を歩いていた女の人の背中に大きな三角定規のようなガラスが突き刺さっていたことだった。血が糸を引いたように背中を流れていても、当人は気づかず無心に歩いていた。また別の女の人を見ると、その背中に、最初黒い点のような物が少しずつ広がっていって、何かと思っていたら、服が燃え始めたのだった。次いで火が髪の毛に燃え移りだして、それを見た周りの人が指摘し、女の人が慌てて防火用水の水をかけるというような、こんな光景もあった。
 さらに歩いて行く途中、西錬兵場から出てきた兵隊の一団に出会った。おそらく戸外で演習をはじめていたのか、カーキ色の帽子やシャツがボロボロになり、火傷した兵隊も多数いたようで、まるで襤褸(ぼろ)敗残兵の集団のようであった。
 その兵隊の集団についていくと、彼らは市内北東部の太田川の大きな河川敷に降りていった。そこには既に千人を超える被災者が集まり、身内や知り合いを探し求めていた。
 ギラギラに焼きつくような太陽のもとで、 私たち親子は、水辺から少し離れた所に打ち上げられていた船の下の影に頭を突っ込んで直射日光を避けていたが、しばらくすると、親子とも熱が出てきて気分が悪くなり、砂を掘って嘔吐した。急性の放射線障害だったのか、あちこちで「ゲーゲー」という苦しそうな声が聞こえていた。
 その中で私の忘れられない光景がある。戸外で建物疎開の作業をさせられていた当時の中学生、女学生が、三、四千度の熱線を浴びたため全身火傷で衣服も焼かれ、裸同然で親の名前を呼び、泣き叫んでいた。嘔気と高熱に侵された彼らはやがて、水を求めて川に入り、水を飲んだが、飲むとそのまま次々と死体となって流されていった。何処からとも無く「敵が川に毒を流した」という声がささやかれ、川に水を飲みに入る人たちは減ったが、その時には多くの死体が川に流されていった。当時の中学生は栄養不良で、現在なら小学三、四年生ぐらいの体格で、子供といっても差し支えのないような少年達であった(原爆資料館に当時の被爆学生服が展示されている)。
 私たち親子が、火炎に追われるように腰まで漬かって川を渡り、大きな楠木の下で身を横たえていると、急にコールタールのような黒い雨が降ってきた。私たちは慌てて防空頭巾をかぶり、予備のシャツをまとって雨を避けたが、たいした降りにもならず通りすぎた。私たちの逃れた方角では、風向きなどの関係で、放射能の「黒い雨」があまり降らず、これを浴びなかったことも幸いしたのだと思う。
 全市が炎上するのを眺めながら、私たちは全身倦怠で動けない状態だったが、火薬庫爆破の危険があると追い立てられ、七、八人の兵隊に伴われて太田川上流に向かった。
 しばらく歩いていると正面からトラックがきて止まり、士官らしい兵隊が降りてきて「この中に重傷者はいないか、いれば乗せてやる」と言ってきた。同行の兵隊達が、「この親子は怪我は大して無いが、疲れきっているので乗せてやって欲しい」と頼んでくれ、私たちをトラックに担ぎ上げ乗せてくれた。
 私はそのトラックに乗っていた重傷者のすさまじさに思わず息を呑んだ。複雑骨折で骨が飛び出ている人、手足が折れ曲がっている人、鼓膜が破れ耳から血を流している人。中でもすさまじかったのは、片方の眼球が飛び出し、それを落ちないように手で受けている人がいたことである。
 母と私は吐き気をもよおし、周りを見ないようにして抱き合っていた。救援列車が来る矢賀駅(矢口?)についたが、そこでも気息奄奄の被災者がひしめいていた。私たちは三時過ぎに動いた救援列車に乗り、五時ごろに、朝出発した芸備線の志和口駅に帰着した。
 八月一五日、天皇のポツダム宣言受諾。敗戦のラジオ放送を聞いた母は「戦争は終わったよ、おとうちゃんが帰ってくるよ」といい、ポロリと涙を流した。母は戦争が終わって、父が帰ってくることが本当にうれしかったのだと思う。しかしその喜びも束の間、その翌日か二日後に、母も私も一夜にして脱毛し、四十度の高熱に襲われた。母は九月一日に父の帰還を待つ間もなく他界した。
 まわりの人たちは、私の「臨終」をも時間の問題であると見ていたし、母の葬儀に来た医師である祖父は「鐵志はもうあかん(助からない)」と言って、注射の一本を打つでもなく帰広した。しかしその後、急に熱が下がり、私は奇跡的に回復した。
 以上が私の被爆体験であり、以後の反核・平和運動にかかわる原点である。
反核・平和運動の光と影
 被爆後の反核・平和運動(以後「運動」と略す)と、また今後の運動についても考えてみたい。
 戦後最初の大きな運動は、朝鮮戦争で米国大統領トルーマンが原爆使用を示唆した際、世界平和擁護大会によって原子爆弾の使用に反対するストックホルムアピールが出され、世界中に署名運動が広がった時のものである。これにより、朝鮮戦争での米国の原爆使用は断念させた。
 ついで五四年三月一日の、ビキニ環礁でのアメリカの核実験によるマグロ漁船「第五福竜丸」の被爆と汚染マグロ、そして無線長の久保山愛吉さんの死が大きく反響を呼び、五五年八月には第一回原水爆禁止世界大会が開かれて成功を収めた。そして国民的組織といわれた「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が結成され、五八年にはソ連の一方的核実験の停止という成果を引き出した。しかし三年後の六一年には米国との核競争の遅れからソ連の核実験が再開され、これが日本の原水禁運動を分裂させることになる。
 ソ連が核実験停止中の六一年の第七回原水禁世界大会では、アメリカの核実験を想定して「最初に核実験を行う国は平和の敵、人類の敵」と決議したが、予想に反してその年の十月に前記のようにソ連が実験を再開した。これに対し原水協は当然抗議しようとしたが、日本共産党は「平和の守り手であるソ連の核実験を支持することが正しい平和運動(二〇〇〇知恵蔵)」であると主張して運動は混乱した。
 続いて六二年のキューバ危機があり、中ソ論争の激化で中国が核開発に着手、連鎖してインド、パキスタン、その他にも南アやイスラエルも参加し、本格的に核競争の時代に突入した。これを契機に部分的核実験停止条約が六三年に米ソ英三国で調印されたが、これについても共産党は、大国の核独占であり中国の核開発を妨害するものと反対し、原水協の「いかなる国の核実験にも反対」という主張は平和の敵をあいまいにし帝国主義者を利すると主張した。
 原水協の事務局に多くの党員を擁し、運動面でも支持者の活動家を動かすことのできる共産党の主張に、原水協は麻痺状態となり、第九回世界大会は安井郁理事長が大会主催を辞退し、 広島、長崎、静岡の被災三県の原水協が開催する事態となった。翌年広島、長崎の両県原水協と総評、社会党など一三団体で原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が結成され分裂が決定した。なお広島、長崎県原水協の少数派であった共産党は、「我こそは本家である」と両原水協、被爆者団体から同名の別団体を組織し、分裂が固定化したのである。このような事態は日本の反核・平和運動にとって、大きな禍根を残したと思う。
 八〇年代に入ると核ミサイル、パーシングUの配置に反対した西独ボンの二〇万人集会を皮切りにロンドン二五万人、ローマ二〇万人など全欧州で次々に反核集会が開かれ、米国の原発スリーマイル大事故も影響して「核」保有国への大きな圧力になった。この動きは八三年にはヨーロッパ・アメリカを席巻した数百万人の抗議行動となり、後にゴルバチョフとレーガンをデタントに向かわせたことは明らかである。
 日本でもこの時期、広島で二〇万人、東京では五〇万人が、第二回国連軍縮特別総会の核兵器の廃止と完全軍縮を求める集会に決起した。総会後の大阪城公園で開かれた報告集会には五〇万人が参加し、核軍縮への動きは高揚した。
 八〇年代後半にチェルノブイリ事故が起こり、その後のソ連・東欧の崩壊と冷戦構造の終結は逆に「核」に対する危機意識を広げ、「核実験」の停止と国際的監視の問題が出され、九四年にはクリントン主導の米英の核戦略大転換があり、核拡散防止条約(NPT)の無期限延長を機に包括的核実験禁止条約(CTBT)が提起された。
 これらはNPT体制を五大国の核独占であると非難する国々がNPTを批准せず、印・パ・イスラエル・イラク(事実ではない)・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)までが核開発に着手しているとされ、止め処の無い核拡散に歯止めをかけざるを得ない状態から出された。もちろんこの間、国連軍縮会議でのNPT体制の核独占や、九六年の夏に出された国際司法裁判所(ICJ)の「勧告的意見」は米、英、仏、露とそれに追随する日本などの妨害をはねのけ、「核兵器」の違法性を認めたことが大きいといえよう。
 ジュネーブの軍縮会議はインドなどとの調整に失敗したが、続く国連総会ではCTBT案が採択された。 しかし、条約が多くの国で批准されていないだけではない。ブッシュが登場してからのアメリカは、未臨界核実験を続けるだけではなく、「九・一一」を機に反テロと称して、小型原爆の開発や十年前の湾岸戦争で一般市民に大きな被害を及ぼした劣化ウラン弾を今度の戦争でも使用し、「核」を含む軍事体制で世界を意のままにしようとしている。 日本の米国追随も自公体制以後はますます強化され、秋葉広島市長が指摘したように国連憲章や日本国憲法さえ存在しないような言動が世を覆い、時代は正に戦後から戦前へと大きく舵をきっている。
差別に殺された朝鮮人被爆者
 こうした動向の原因の一つにわが国が戦前のファシズム時代の戦争責任をあいまいにしてきたことがあると考える。
 私は昨年開かれたヒロシマの平和祈念館で「広島市の被爆当時の人口が三五万人でその年の内に亡くなった人が一二万から一三万人」と記されているのを見た。ところでそこには書かれてないが、朝鮮人が五万人住んでおり、内三万人がその年内に亡くなっている事実がある。
 この数字は恐るべき内容を含んでいる。まず、当時の広島市民の七人に一人が朝鮮人でこの中には強制連行「拉致」された人が数万人いる。そして六割の人が亡くなっている。すなわち三五万人の市民から朝鮮人被爆者の五万人を除き、同じくその年の内に亡くなった朝鮮人被爆者三万人を除けば「広島市の被爆当時の日本人は三〇万人でその年の内に九万から一〇万人の人が亡くなった」となり日本人の年内被爆死者の比率は三割若しくは三分の一ということになり、六割にのぼる朝鮮人被爆者の年内死亡率の約半分ということになる。
 私が爆心近くで被爆しながら奇跡的に生き残れた原因の一つに、被爆したその日から広島市内を離れ二次放射能を受けなかった事がある。それに比べ朝鮮の人々は田舎に親戚は無く、もともと多くの人たちはトタン作りのあばら家(私の実家の近所に朝鮮人部落があった)に住んでいたが、被爆後も逃げ出す先も無く、残留放射能の渦巻く市内で太田川の水を飲んですごした。これが三割と六割の差の主因だと思われる。
 またもう一つ、当時私達小学生は集団疎開令により小学三年から六年生は全て田舎に疎開させられていた。田舎に縁故の無い者は、各学年七、八名の構成で三〇人くらいの単位でお寺などで共同生活をしていたが、朝鮮人の生徒は一人もいなかった。近所に新井君、金本君、姜本君など多くの友人がいたのに、疎開先では一人の朝鮮人も見かけなかった。
 後にこの事に気づいて行き先の違った多くの同級生に確かめたが、誰もが「そういえば居なかった」との答えである。ずっと後に在日の知人に確かめたところ、「半島人」と呼ばれた朝鮮人は生活習慣も違う等の理由で集団疎開から排除された。当時朝鮮人は創氏改名を強制され日本人とされていたにもかかわらず、こうした差別が行われていたのである。
 戦後中学校に入学した時、かつての朝鮮の友人は一人も居なかった。おそらく幼い友人たちの多くは亡くなった六割の中に入ったのではなかろうか。どんなに差別や迫害をされても集団疎開に参加していれば生命だけは救われたのに・・・・・・。それに気付いた時、私は日本の犯した犯罪のあまりの大きさに胸の痛みを感じざるをえなかった。
戦争責任を明確にして反核・平和運動を
 いま日本で、北朝鮮の拉致問題を軸に有事法制やイラク派兵などが国会を通過し戦前回帰が強まっている事を私は許せないし、許してはならない。また電力不足の虚構のもとに大規模な原発を稼動し、北朝鮮が持っているかもしれないという量の何十倍ものプルトニウムを作り出し、「普通の国になる」という名目で、日本が核兵器を持ちかねないような状況を許してはならない。 拉致の謝罪を求め、真相を究明する事は当然だが、かつてわが日本が朝鮮の人々に加えた、数えきれない非道と迫害に目をつむり頬かぶりする事は恥ずべき事である。
 今年の広島八・六で、秋葉広島市長は、核廃絶の道を阻んでいるのはアメリカの核政策だと断定し、ブッシュ大統領と、核開発を目指しているといわれる金正日総書記や核保有国の指導者が広島の原爆資料館を見、被爆生存者の話を聞くべきであると述べ、小泉首相の前で、日本は非核三原則を新たな「作らせず、持たせず、使わせない」という三原則に高め、国是とせよと宣言した。
 被爆者の高齢化とイラク戦争など運動の無力化が進むにもかかわらず、広島では今春、若者達を中心に六千人が「イラク戦争やめろ」と「NO WAR NO DU! (劣化ウラン弾)」の人文字を描いた。さらに八月六日の夜には一五〇〇の灯篭を作り点火し、夜のひろばに大きなピースマークとアラビア語、ハングル、日本語の平和文字を描き、爆心地の元安川まで灯篭デモをしたあと灯篭流しを行うというユニークな運動を行った。
 私はここ二〇年あまり被爆体験を語り、年平均四、五回は小学校などで講演しているが、原発、朝鮮人問題など難しい話でも子どもたちは熱心に聞いてくれ、「戦争体験を身近に感じた」などの感想を寄せてくれており、私を勇気付けてくれる。私の被爆体験を多くの人に聞いていただきたく、ホームページでも呼びかけている。
 URL http://www10.ocn.ne.jp/~hankaku/
「核と人類は共存できない」
 この真理の実現に向けて、ヒロシマ、ナガサキからの発信に応えて、全力を尽くしたい。
米澤鐵志(よねざわ てつし)
宇治市宇治野神五〇―一。立命館大学で六〇年安保闘争を指導。広島での被爆体験を各地で証言している。京都府原爆被災者の会宇治支部