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共に生きる道を探りたい
― 広島・長崎の役割 ―
(1) 広島・長崎から始まった核文明
 一九四五年八月六日、九日、広島・長崎は、相次いで人類史上初めて核兵器による一方的な爆撃を受けた。その日の広島は、晴れ渡った夏の良い天気で、原爆投下の直前まで、戦時中とはいえ、なにがしかのどかな風景が展開していた。一機の爆撃機が上空に飛来した午前八時一五分、何かがピカッと光ったその瞬間から、すさまじい熱風と死の灰を含んだ爆風が人々を襲い、街は壊滅した。爆心地から数キロ範囲にいた市民は、ほとんどが熱風と爆風により死亡し、命を取りとめた人々は、熱傷や大けがをしたまま、水を求めて街をさまよった。投下した爆撃機からは、おそらくきれいな閃光と巨大なキノコ雲に見えたかもしれない。が、その下で展開された光景は、地獄絵そのものである。この出来事は、帝国主義間戦争のさなかに起きたこととはいえ、非戦闘員を対象とした無差別攻撃であり、それも、並大抵ではない人類史上最悪の大量無差別殺戮だった。
 これまで原爆投下を実行した当事者から補償はもとより、謝罪すらない。戦争の中でおきたことであり、勝った側は何の責任もないということなのだろうか。被爆者をはじめ、広島・長崎の市民は、あえて謝罪と補償を求めては来なかった。市民は、多くの肉親や友人を亡くし、焼け野原となった街にたって、戦争は二度とくり返してはならないという強い思いにかられた。更に戦時中は知らされなかったが、一五年前の一九三〇年にはじめたアジアへの侵略戦争の一つの帰結として広島・長崎や全国各地での空襲があったということも知ったのである。これらの事実を前にして、市民は戦争の無意味さをつくづく感じ取った。必要なことは、何よりもこの最悪の兵器を地球上から廃絶させること、そして恒久平和を求めることなのである。
同じことは、私の住む呉市にも当てはまる。敗戦と共に、旧海軍が解体された呉はゴーストタウンとなり、海岸線には残骸と化した連合艦隊の艦船や焼け跡としての海軍工廠だけが残った。「破壊されたスクラップの山と転覆した艦船の残骸は、これを眺める市民に戦争の惨禍と無意味さをしみじみと訴えるのである」との想いは、平和産業港湾都市として生まれ変わるべく「旧軍港市転換法」をつくる原動力となった。
 一九四七年に施行された日本国憲法は、日本の民衆のこのような歴史的体験と深い反省の下に、市民が自らの意志で選び取ったものである。憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたわれている。その上で、第九条で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」としている。この観点に立って、核兵器の廃絶と地球上のあらゆる場所における恒久平和をつくっていかねばならない。
(2) 九・一一事件の衝撃と悲しみ
 二〇〇一年九月一一日、世界貿易センターと国防総省で起きた出来事を、私たちは、衛星放送による同時映像で見せつけられた。初めはにわかには信じられない光景が展開されていたが、徐々に民間航空機が武器となって、多くの市民が労働しているビルを攻撃したものだということが浮かび上がってきた。
 崩れ落ちる貿易センタービルの映像は、その中に多くの市民がいるはずだと思うと、まさに広島・長崎でキノコ雲の下で起こった惨劇と重なって見えていた。瞬時にして三千人強の罪のない市民が無差別に殺された光景は、一九四五年夏に広島、長崎で起きたことを思い起こさせるものだったのである。規模で言えば、広島、長崎は、その数十倍の市民が生命を奪われ、自然そのものが壊滅した。もし現在のような通信網が整備されていたら、世界中の非難が集中したはずである。
このような歴史的体験を持つ広島・長崎市民にとって、あの無差別攻撃によって奪われた生命と遺族のことを思うと、ニューヨークでのできごとは、とても他人ごととは思えず、深い悲しみと同情の念を抱いた。このような行為は、いかなる理由があろうと決して許されることではない。
その直後から、犯行グループが取りざたされはじめ、一ヶ月足らずの内に、犯行グループと目されるアルカイーダと、それを容認するタリバン政権のいるアフガニスタンへの戦闘が開始された。暫定政権の発足から一・五年もたつ今も、米英軍の占領は続いている。正確な数はわからないが、この戦争により四千人を上回るアフガンの罪のない市民が殺されている。犯行グループの最高責任者と目されるビン・ラディン氏の消息は不明のままである。アメリカをはじめとした国々によるアフガン戦争は、新たな憎しみを生みだしただけなのではないか。そしてアメリカ軍の兵器庫からトマホーク、劣化ウラン弾などのミサイル・弾薬の在庫を一掃し、新型の燃料気化爆弾や精密誘導兵器を実地に使用しただけではないのか。「テロ」に対してであれば、何をしても許されるという姿勢はおごりである。
 二〇〇二年になって、ブッシュ政権は、対テロ戦争の対象を拡散させ、大量破壊兵器の開発疑惑を口実に、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)を「悪の枢軸」と名指しし、二一世紀を「戦争の世紀」にしかねない方針を掲げた。
(3) アメリカの一国主義と先制攻撃戦略
 米ソ冷戦の終結で、核軍拡競争が終焉を迎えると世界中に希望をいだかせた。それもつかの間、アメリカ政府による一国主義が強まり、特にブッシュ政権が登場してから、目にあまるものがある。
 最新のアメリカの核政策である二〇〇二年一月の核態勢見直し(NPR)に貫かれている精神は、核兵器の永久保持を前提としたものである。二〇〇〇年のNPT再検討会議での「保有核兵器の完全廃棄の明確な約束」は完全に無視され、ましてや広島・長崎の悲願である核兵器の廃絶とは真っ向から対立する戦略を貫こうとしている。
特に問題なのは、超小型とはいえ、核兵器の実戦投入計画を画策していることである。二〇〇二年三月九日付の「ロサンゼルス・タイムズ紙」は、「核態勢見直し(NPR)」の一部を暴露して、「悪の枢軸」三カ国を含む、少なくとも七カ国(他にロシア、中国、リビア、シリア)に対して核兵器の使用計画を検討するよう国防総省に指示したと報道した。想定している事態は、@非核攻撃では破壊できない攻撃目標に対して、A生物・化学兵器による攻撃への報復として、B予測を越えた軍事上の展開に対してで、実戦に投入しやすい付随する被害を減らした小型核兵器の開発をするよう求めている。
一九九五年のNPT無期限延長決定に当たり、核保有国は、「NPT締約国である非核兵器国に対して核兵器を使用しない」と宣言している。また国連安保理決議九八四「非核兵器国の安全保障に関する決議」でも、同じ内容を確認している。さらに、一九九六年七月の国際司法裁判所(ICJ)の勧告は、「核兵器の使用・威嚇は国際法違反」としている。アメリカの「核態勢見直し」は、核兵器の廃絶を求める世界の広範な世論を無視し、人類と地球の未来を奪う暴挙である。この一点だけでも、「ブッシュ政権こそが世界最大のならず者」(ニューヨーク・タイムズ紙二〇〇二年三月一二日)である。
 こうした基本姿勢のため、NPTの再検討会議に関わる努力に関してアメリカは、ことごとく背を向けている。特に合意の五項目である「核軍縮、核及びその他の軍備管理と削減措置に適用されるべき、不可逆性の原則」が多くの面で無視され、過去の努力が水の泡と化している。例えば、次のようなものがある。
@CTBTを批准せず、その無力化をめざす
A核実験再開の準備期間を短縮化
B使用可能をめざした超小型核兵器の開発
CABM条約からの脱退を一方的に通告
D宇宙の核軍拡につながるMD計画の強行
ESTART過程の放棄
F未臨界核実験の続行、などである。
 そもそもNPTは、核兵器保有国を五大国と限定し、それらの国が核兵器を持つことは、何らとがめられることなく、核兵器の拡散を防止しようという手前勝手で、差別的な条約である。この矛盾を少しでもなくす方法としては第六条を不断に前進させるしかない。現有の核兵器をなくしていく目に見える努力なしに、世界の共感を得られるはずはない。
このような観点から、下記のことをアメリカ政府に要求する世論、特にアメリカ国内の世論を作らねばならない。

一、核態勢見直しを公表するとともに、NPT再検討会議で約束した、「保有核兵器の完全廃棄の明確な約束」と、核軍縮のための「実際的措置」として合意された一三項目を実行する具体的プランを明確にすること。
二、七カ国を対象とするとされる核兵器使用の計画策定を中止すること。少なくとも、非核兵器国への核兵器の使用をしないことを法的拘束力を持たせて保証すること。
三、CTBTへ早期批准をし、その早期発効に尽力すること。
四、CTBTに違反する未臨界核実験計画を中止すること。
五、一キロトン以下の超小型の核兵器の開発のために、核実験を再開する方針を決定しないこと。また核実験再開の決定から実行までの期間を短縮させる予算措置をしないこと。
六、二〇〇一年一二月一三日のアメリカ政府による一方的なABM条約からの脱退通告を撤回すること。
七、新たな核軍拡を導きかねないMD(ミサイル防衛)計画、特に日米共同でのTMD計画を中止すること。
八、暴力に対して暴力で闘わないこと。

 NPRは二〇〇二年九月、「ブッシュ・ドクトリン」として姿を現した。これは、大量破壊兵器の拡散、使用の疑いがある国に対しては、核兵器の使用も含めて先制的な攻撃をしかけ、政権を転覆させる権限があるという傲慢な軍事戦略である。二〇〇三年三月、ブッシュ政権は、ブッシュ・ドクトリンの最初の対象をイラクに定め、大量破壊兵器保有の「疑い」を理由に、「自衛」の名においてイラクへの一方的な先制攻撃をしかけ、劣化ウラン弾やクラスター爆弾など非人道的な準大量破壊兵器を使用し、破壊の限りをつくした。これは最悪の戦争犯罪である。
 更にイラクに続き、東北アジアへの「ブッシュ・ドクトリン」の適用を許さないことが焦眉の課題となっている。アメリカは、イラクの失敗にも懲りずに北朝鮮などの「核拡散」に矛先をあてつつ、強硬な外交政策をとっている。これに対抗せざるを得なくなった北朝鮮はNPTから脱退し、核兵器の保有発言までしてしまった。拉致や工作船活動は絶対に許せない行為である。しかしその認識の上で、あくまでも力の対決でなく、二〇〇〇年六月の「南北共同宣言」、二〇〇二年九月の「日朝ピョンヤン宣言」を基本に、東北アジアの非核化や相互不可侵条約を作ることをめざすべきである。
(4) ヒロシマ・ナガサキの役割
 二〇〇〇年五月のNPT再検討会議での、五つの核保有国による「保有核兵器の完全廃棄に関する明確な約束」は核兵器廃絶に向けた二〇世紀の最高の到達点であり、これにより核兵器廃絶への道が始まる兆しが見えた。しかしブッシュ政権の登場で、核の先制使用も含めたブッシュ・ドクトリンが登場し、実際にイラクに適用されるに及んで、その約束はかき消され、反故にされかねない状況である。NPTは瀕死の状態である。
 しかしイラク戦争の本質と実態を暴くことが国際的な努力でできていけば状況は大きく変わりうることも見ておかねばならない。イラクでは、湾岸戦争時の劣化ウラン弾によると見られる人的被害が発生し、クラスター爆弾による被害も含め、それらは放置されたままである。「イラクの解放」をめざしたにも拘らず、戦闘終結宣言が出た後も武力衝突が続き、米英兵の死者が毎日のように出ている。八月一九日は、人道支援を銘打った国連のイラク事務所で爆発が起こり、国連の特別代表を含む少なくとも二四人が死亡するという痛ましい事件まで起きている。
 しかも大量破壊兵器は見つからず、「悪の枢軸」呼ばわりした根拠の一つである「ウラン購入」情報が虚偽であったことまで判明し、イラク戦争は何一つ大義のない侵略戦争であったことがいよいよ明らかとなっている。このためアメリカ兵の士気の低下は著しく、ブッシュ政権の支持率の急落とイラク占領に対する反発はアメリカ市民に広がっている。「ブッシュ・ドクトリン」の破綻を浮き彫りにし、戦争犯罪を告発する作業が進めば、米占領軍の撤退も夢ではない。国際的に孤立しているのは、米英政府である。
 こうした情勢の中で、今、改めて広島・長崎に出番がきている。NPTが瀕死の状態であればこそ、私たちは、二〇〇〇年の再検討会議における約束の履行にこだわるべきであることを、被爆地から世界の人々に向けて改めて呼びかけねばならない。核廃絶は、地球上の全ての生命体の共通の意志であり、そのメッセージを世界に広げていくことはヒロシマ・ナガサキの責務である。
 アメリカの核政策を変えられるのは当事者であるアメリカ市民であるが、そのアメリカ市民に広島・長崎を始めとした日本の市民と自治体が連携して核兵器廃絶と恒久平和を訴え続けることは大きな影響力を持ち得る。国際的な視野を持って、市民が相互につながる必要がある。当面二〇〇五年のNPT再検討会議への集中的な働きかけを、広島・長崎を始めとした日本の市民の世論として作り上げることが、極めて重要である。自治体もこれを先導する動きを作りそうな気配がある。二〇〇三年の「広島市の平和宣言」には、次のような下りがある。
「核不拡散体制を強化するために、広島市は世界の平和市長会議の加盟都市並びに市長に、核兵器廃絶のための緊急行動を提案します。被爆六〇周年の二〇〇五年にニューヨークで開かれる核不拡散条約再検討会議に世界から多くの都市の代表が集まり、各国政府代表に、核兵器全廃を目的とする『核兵器禁止条約』締結のための交渉を、国連で始めるよう積極的に働きかけるためです。」
この自治体の動きに呼応する市民レベルの行動計画を緊急に作り上げることが緊要である。
 いうまでもなく、戦後の半世紀強の間に、アメリカをはじめとして、核兵器の使用を思いとどまらせてきた最終的な歯止めは、ヒロシマ・ナガサキの体験であり、被爆者の存在そのものであった。ヒロシマ・ナガサキの被爆者をはじめ、被爆二世、三世やその他の市民が、人道的な意味で「核兵器は絶対悪である」ことを訴え、保有と使用を許さないという声を上げ続ける意味は国際的にも極めて大きい。
(5) 広島・長崎反核平和使節団
 広島・長崎からの声の大切さを実感させる機会がこの所、続いている。例えば、二〇〇二年四月、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会が核兵器廃絶ナガサキ市民会議と共同で行った「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」の一員として訪米した時に、何度となくそのことを思い知らされた。九・一一以降激しく揺れるアメリカ、テロ撲滅の名によるアフガニスタンへの無差別攻撃、急速に核兵器廃絶の流れに逆行して「核態勢の見直し」を軸に「二一世紀の新しい戦争体制」の道を歩むアメリカ・ブッシュ政権への危機感につき動かされ、ヒロシマ・ナガサキから反戦・反核への思いをアピールすべく被爆者八人、被爆二世二人を含む一九人の反核平和使節団は四月二四日から五月四日の一一日間にわたってニューヨーク、ワシントン、アトランタとアメリカの三都市を巡って様々な行動を展開した。
 九・一一事件の遺族の中で、自分たちの肉親の死を利用して、ブッシュ政権が戦争に駆り立て、自分たちと同じ境遇の市民を多数生み出すことに異を唱え、アフガン戦争に反対する数少ない市民で構成するグループであるピースフル・トゥモローズとの交流は、相互に影響を与える感動的なものだった。「私たち以上に戦争と核の苦しみを良くわかっている広島・長崎の皆さんの仕事に心より共感する。平和のために一緒に行動したい」(キャリー)、「弟が一機目の攻撃で直接やられた。両親は、ただ痛いとしか言えなかった。他の人が同じ様な苦しみを味わわないようにと切望している。父は、第二次大戦で海兵隊員としてサイパン、硫黄島へと派兵された。戦争は軍人も苦しめていて、その苦しみはずっと終わらない。」九・一一の遺族の中にも、ブッシュの戦争政策では何も解決せず、むしろ自分たちと同じ境遇の人々を生み出すだけであると冷静に判断し、行動する人たちがいる。その彼らにとって、半世紀前に、もっとすさまじい体験をし、その原因となった核兵器の廃絶を求め続ける広島・長崎の被爆者との交流は、彼らに大きな勇気を与えるものであることがわかった。


世界貿易センタービルのそばで、9・11遺族ピースフル・トゥモローズとの交流。左が筆者。(2002.4.27)

 ワシントンでは、対テロの戦争政策にただ一人反対を貫いたバーバラ・リーさんなど民主党の上院、下院議員の事務所を訪問してロビー活動を行った。私たちが作成したA4、六ページの「共に生きる道を探りたい」と題した基本文書と、ピースデポが中心となって作成した「核軍縮:日本の成績表」を持って回った。これは、広島・長崎の立場からブッシュ政権の核軍事政策の変更を求めるという訪米の柱の一つである。核兵器廃絶の先頭に立つクシニッチ議員のスタッフは、「核兵器はいらないと思っている議員は四〇―五〇人はいる。ただ正直に表明するのは、皆恐いと思っている面もある」と語った。核兵器問題に関する国際会議も頻繁に開いており、そうした場に、広島・長崎から是非出席してほしいとの要請も受けた。被爆者が証言するとスタッフ達は熱心にメモを取り、やはり原爆被害の当事者が、議員に直接話をすることの意義が感じられ、被爆証言を議会関係者を対象に組織的に行うことが必要だと強く思った。スタッフ達は、こぞって「唯一被爆の経験を持つ皆さんが、世界の動向に影響を持つアメリカで核兵器の悲惨さと非合理を積極的に話してほしい」と語ってくれた。


ピースフル・トゥモローズの人々。(2002.4.27)

アトランタでは、タワーズ高校への訪問が印象的だった。ここは前日になって訪問を断ってきたのだが、私たちは、生徒との交流はしたいということで、下校時に正門前で待機し、折り鶴を一つ一つに切り離して、「ペーパー・クレイン」と言いながら手渡し、広島・長崎から来たことを伝え、片言で話しかけた。私は、長崎原爆遺族会の下平会長が体験を説明する手伝いをした。彼女は、被爆した当時の自分の通っていた小学校の写真パネルを持っていて、これを見ながら話をすると、生徒たちは、熱心に聞き入った。いくつもの輪ができる内に、「原爆の話を聞きたい」との要請があり、芝生の上で青空教室が始まった。講師は下平さん。生徒たちが用意したカードやメッセージの入った段ボール箱二箱を持ってきてくれた。それには、「戦争ではなく、愛を」などの歓迎の言葉がつづられていた。校舎の中に入ってできなかったことは残念だが、考えようによっては、学校全体の生徒に、なにやら広島・長崎から被爆者を始めとした市民が来て、核兵器のない社会を作ろうと訴えていることを伝えることはできたのではないか。


ホワイトハウス前にて反核ラリー(2002.4.29 ワシントン)

更に二〇〇二年一〇月には、ピースフル・トゥモローズの二十代の青年、ライアンさんが来広した。資料館を見、被爆者と接していくうちに、日増しにアメリカの核政策に対して根本的な疑問を抱いていくのがわかった。元々彼らは「自分の身内の死の名において戦争を起こすな」とブッシュ政権のアフガン攻撃に反対して、行動を起こしたごく普通の市民である。その彼らが私たち訪米団との接触を通じて、自国の核を柱にすえた戦争政策に反対する視点をつかみ、動き続けている。このような関係をより多様に作ることが、アメリカの政策を変えていくために有効な手だてである。その際ヒロシマ・ナガサキは、国家の垣根を越えて民衆同士がつながっていくために、一つの鍵を握っている。こうして広島・長崎と九・一一遺族との連携、アメリカ議員への働きかけが始まった。


米エネルギー省へ向けた反核ラリー(2002.4.29 ワシントン)

 二〇〇二年八月末、マニラで、APA(Asian Peace Alliance)の発足総会に出たときも、スライドを使って、一九四五年八月にヒロシマで起きたことを話す機会があり、多くの参加者からの反響の大きさに驚いた。核の脅威についてアジアの人々と共有する努力は、決定的に不足している。
 これらの体験を通じてヒロシマは、まだ世論形成のために、せねばならないことが沢山あることに気づかされた。ただし、その際に広島は戦前のアジア侵略の拠点であったこと、そして今も米軍・自衛隊の基地があり続けている現実に対する確かな視点も肝に銘じておかねばならないが。
(6) 共に生きる道を探りたい
 ブッシュ政権は、戦後五〇年に亘る国際的な協調を通じて、勝ち取ってきた多くの多国間協議の結論をことごとく覆している。いわば、「核軍縮、核及びその他の軍備管理と削減措置に適用されるべき不可逆性の原則」を無視している。これは、時間がたてば、人間社会が良くなっていくと予定調和的に考えることはできないことを教えている。九月一一日の出来事、その後のアメリカを先頭とし、日本も参加しているアフガンでの戦争。九月一一日のできごとを悪用したイスラエルによるパレスチナ侵略。イラクへの先制攻撃と軍事占領。これらの暴力の連鎖に対して今こそ国際的な連携をもった市民の不断の努力が求められている。
 太陽系において水が固体、液体、気体と変化しつつ、循環できる温度条件を備える領域はごく限られ、水の惑星として存在できる位置にある惑星は地球をおいて他にない。表面の七割を海洋が占め、生命は海洋で育まれた。植物の繁栄で大気中の酸素が増え、オゾン層が紫外線をくい止めるようになって生物は陸上に進出する。そして最近の数百万年に、自らの生きる場について、その意味を解明し、自然に働きかけることができる人類という知的生命体が登場した。このような状態を保持する惑星は、銀河系の中でもごく稀な存在であり、地球はまさに宇宙のオアシスそのものである。
 こうした自然観を持てば、地球に生まれ出た知的生命体同士が殺し合いを続けることの愚かしさと空しさは明白である。市民もそうだが、為政者の自然観が問われている。残念ながら、現在のブッシュ政権の強権的な戦争政策と核軍事政策を見ていると、人間世界で最も力の強いリーダーが、もっともわがままであると断じざるをえない。その限りにおいて地球社会の改善は見込めない。
 私たちは、たまたま、そして同時に奇跡的に、しかも同じ時間に地球上に生命を得て、生きている意味をかみしめてみるべきである。そのとき共に生きていく道を探ろうとする想いが相互に生まれてくるはずである。開けてはならないパンドラの箱の直接的被害を被った広島・長崎から、世界の市民、特にアメリカ市民に向けて強く呼びかけたい。同時多発テロの遺族でありながらアフガン空爆に反対しているアメリカ市民によって組織された〈Peaceful Tomorrows〉のような平和活動グループなどとも連帯しつつ、世界の人々とともに未来を築くために、核兵器を頂点とした軍事力にたよるのでなく、市民が相互に信頼し、共に生きていける道を探ろう、と。
湯浅一郎(ゆあさ いちろう)
一九四九年、東京生まれ。東北大学理学部卒。専攻は海洋物理学、海洋環境学。産業技術総合研究所研究員。広島県呉市在住。科学技術の社会的あり方を問う契機として、公害反対運動や反戦平和運動に関わる。
ピースリンク広島・呉・岩国世話人。核兵器廃絶をめざすヒロシマの会運営委員。ピースデポ理事。脱軍備ネットワーク・キャッチピース運営委員。環瀬戸内海会議顧問。
著書に『平和都市ヒロシマを問う』、『地球環境をこわす石炭火電』(共著)(技術と人間)など。他に論文多数。