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連載「鉄道員のゆうゆう「世界」ひとり旅」
新連載・その1「シベリア鉄道の旅」


終着駅ウラジオストックにあるモスクワから9288kmの距離標

思えば遠くに来たもんだ
 二十歳で、広島へ行ってから、三五年、旅を続けてきた。トラベルはトラブルに通じる。数々のトラブルに遭遇。それをどうにか、乗り越えることを繰り返して、そのたびに、自分が変換(トランスファ)してきたように思える。「旅の恥はかき捨て」でも、文は書いたことがない、勤続四〇年の労働者。この際は「書き捨ても、一興」と、この一年にできた一〇回の旅を、書いてみよう。思えば、遠くに来たものだ。
バウチャーって何?
 六月は、三〇年以上続けている恒例の、二週間旅行の月。二〇〇一年はイタリア旅行だった。アムステルダムから、アルプスを越えて、イタリア南端のシチリアまで、鉄道で移動。ローマでは、ヨハネ・パウロU世と、掏摸(スリ)に会うという、自由気ままな旅を楽しんだ。
「鉄道員」と名乗れるうちに、やらねばならないことがある。そうヒラメいたのは、そのイタリア旅行から帰国する飛行機の中。「シベリア鉄道に乗りたい!」。関西空港に到着するなり、電話で旅行社に相談したら、東欧圏はビザが必要。ビザを取るためにはバウチャーを作成するとのこと。「バウチャーって何?」。ボクは今までビザも取ったことない。往復の航空券を買うだけだから。
 バウチャーとは、予約確認書。つまり入国から出国までの飛行機、鉄道などの交通手段と、ホテルなどの旅行行程の一覧表で、日本で料金を払い込んだ、予約の確認書です。バウチャーがないと、ビザが取れない。すべての行程が確認できないことには、ビザを出さない。あらかじめ、行程を全部決める必要がある。たぶん、既得権益の保護だろう。「分かった。けれど、解らない」。そこで、二〇〇二年三月に、ベルリンからワルシャワ、ミンスク、モスクワまで下見旅行をする。改めて六月に「シベリア鉄道に乗る」計画にした。この計画が実現すると、西欧の西の果て、ポルトガルのリスボン郊外の「これより西 海はじまる」ロカ岬から、極東のウラジオストックまで、ボクの鉄道旅行は、ユーラシア大陸を横断して、繋がるのである。


『地球の歩き方71』(2000〜2001版)より作成

鉄道で ロカ岬からウラジオストックまで繋がる
 バウチャー理解のための、下見旅行の実行。それが、一連の旅行のスタートです。ベルリンに飛んだ。九四年には、西ベルリンに泊まったので、今回は、東ベルリンに泊まる。「菩提樹の下」通りを、前回とは逆向きに歩いて、ブランデンブルグ門を通過。「ZOO(ツオー)」駅から鉄道で、ワルシャワに向かう。
 ワルシャワは、非常に印象が深い街。ミンスクやモスクワは、まったく面白くない。案内書によると、ベルリン、ワルシャワ、ミンスク、モスクワの共通点は、「一八一二年、ナポレオンによって破壊された。第一次大戦でも、第二次大戦でも破壊された。それを復旧した」ということ。ミンスクと、モスクワは、道路は定規で引いた直線で、建物は、鉄筋コンクリート主体。だからチャイコフスキー・コンサートをやる建物も、「なんやこれ?」という感じ。ホテルは、日本のアパート群と考えた方がいい。それに受付がある。三ツ星ぐらいの、外人専用のモスクワのホテルでも、そんな感じ。一応、鍵はかかる。最低限度のものはある。けれども設備は悪いし、古い。計画経済の名の下で、定規で線を引いて「人民に利益になる街を作る」っていう発想ですね。ボクのヨーロッパの印象は、石での街づくり、と思うのですが。


けったくそ精神で復元 ワルシャワの科学アカデミーの建物

 しかし、ワルシャワの建物は、石造りが主流。ホテルも石造りだった。そして「もとの建物を、そのまま復元した。汚れから、壁のひび割れまで、復元した」という。そういう明確な構想でもって、道も曲がりくねったままの復活。旧市内は、ゆったりと散策できる。魯迅の「もともと地上には、道はなかった。多くの人が歩いたところが、道となったのだ」を思いだした。
 計画経済はすばらしい、と思っていた時期がある。しかし結局、現地で見たものは、人間の浅知恵やね。優秀な指導者が、よいと思って線引きしたもの、便利だといって作ったものは、便利かもしれないけど、生活にはなじまない。旅行者にとって面白くない。コンピューターでいうと、ウィンドウズやマックに替って、リナックス。人々の力で、みんなで足りないところは補いながら、オープンに決めるほうがいいように思う。
 ワルシャワの労働者の心意気というか。彼らは、非常に痛めつけられた歴史がある。ナチスに占領され、ソ連の脅威もあって、それを撥ね返すけったくそみたいな力が、この街を作り出している。そのように、ボクには伝わってきた。だから、そこで歌いたかったのね。その日はアルコール入れて、いい気分になってホテルに帰る時、日本語でごっつい声で、ワルシャワ労働歌「暴虐の雲、光を覆い」という、歌詞がとぎれとぎれにしかわからないんだけど、そんなことはええやん。なにか、その地に関係があって、ボクが表現できるもの。社会主義労働者党のビルの前を通って、そのあたりで、高唱しながら歩いた。
 店では、ユーロが直接使えた。ボクが行ったところは、旅行者のコース。深入りはしていない。みやげもの屋も、ドルでもユーロでもOK。日本円は、店で直接ではダメだったけども、街で両替はできた。ワルシャワは、西欧なのだと思った。教会もちゃんとある、ここは非常に健全だ。ポーランドの街は、いい気分になって歌を唄うほど、いい街だった。
列車を乗りまちがう
 ワルシャワからミンスクへ行きました。送りは乗用車で、ホテルから駅まで。どの列車に乗るのかと聞いたら「駅で聞いてくれ」。駅員に聞いても「ミンスク行きの直通切符」を見せているのに「鈍行」を教えるんですよ。ボクは、ゆっくり旅行するほど面白いと思っているし、鈍行はかまわないんだけど。列車が国境の駅に着いて初めて、乗りまちがえたことがわかる。国境街ブレストは、レールの幅が変わる所で、ここは注目地点。直通列車が、どのように進むのか、見たかった。結局、国境通過はボク一人。ロシア語は、アルファベットも読めない。出入国の用紙はロシア語。何も読めない。入国の仕方もわからない。何を言われても、すべて不明。でも、こんな時こそあわててはいけない。国境でやるべきことを、一つずつやる。出入国審査。両替。切符の購入。ワルシャワは、よい街だったのに、送迎のヤツが、ちゃんと教えてくれないから、こんなことになる。バウチャーに疑問が湧く。ポーランドでは英語がOK、ベラルーシや、ロシアでは、ほとんどだめ。
 ブレストでは、列車の乗りまちがいで、困惑したのだけれど、ともかく、わからなくても、なんとかするし、してくれる。英語混じりの日本語で、「ミンスク、ミンスク」と言ってると、ミンスクへ行く列車には、乗せてくれた。ミンスクは、すごいインフレ。百ドルを換えたら、札束が来る。切符代は、百ドル分全部を、さあ取ってくれと差し出して、女性駅員が、ちょっと一〜二枚取って、切符を発行して、列車に案内してくれる。こんなドタバタの末、寝台列車に乗れた。「やったあ、これでミンスクに行ける」と思った時に、ロシア系列車の女性車掌が、レモンティーを持ってきてくれた。そのレモンティーは、ものすごく暖かかった。


ミンスクの百貨店前では、両替車両に遭遇した

 ミンスクに到着しても、遅れているから、迎えがない。型どおりに来るけども、探すとか、見つけなければならない、とは全く思わないわけだ。この感覚は、ボクらとは違うのか。旅行社の送迎は、次の汽車の切符を、現地で受け取る手順になっているので、深刻である。ホテルに着いたら、メモがあり「迎えに行ったが、いなかった。明日電話する。トラブルがあったら連絡してくれ」とか、メモに書いてあった。英語だけれど、癖のある筆記体なので、クロスワード・パズルですよ。「連絡がなかったら、何日何時に迎えに行く」と、ようやく読めて、それはちゃんと来てくれた。ブレストで百ドル換えたが、ベラルーシでは、結局七〇ドルぐらい余った。ものすごいインフレの中で、二泊三日して、三〇ドルぐらいしか使えない。なぜなら、レストランが見つからない。マクドナルドやケンタッキーはあるけど。ボクの趣味として、米国資本には入らない。ヤバイと思った時は、非常食を買い込む。市場で、パンと水、ハムとチーズの塊。それだけは、完全確保。その上でレストランを探す。ところが、いくら探しても見つからない。「そうなら、ホテルに帰ったら、レストランはあるはず」と考えた。確かにレストランはあった。けれど「今日は営業してません」。もう、言葉もない。
 言葉ができなくても、旅行は可能。けれども、そういう時に「なぜ営業していないのか?」とか「どこへ行けば食事ができるのか?」と聞けない。聞いても判らない。非常に困る。ボクの言葉の壁です。
 ミンスクでは円はダメ。かつての敵国、ドルはOK。百貨店の前には、両替車のバンが来て居てるから、強烈なインフレが起こってるのは確か。両替金種が知りたかったのだが、一方はベラルーシ・ルーブルだろう。交換する通貨が、何なのかは不明のまま。お金のことだから、覗き込むこともできない。ドルなのか、ロシア・ルーブルなのかを見定めたかったけれど、無理でした。
 百貨店へ入った。正面は、宝石とか時計とか、最新のファッションだったり、とにかく店の看板場所だけど、そこに洗剤がずらっと並んでる。「もの」は一通り、何でもある。だけど、売るもののメインが、洗剤。買い物は、現地通貨のみ。人々は、必要の都度、必要なだけ、両替店で両替をして、買い物をするという感じ。ボクの旅行はすべて、想像でしかないから、正確さには欠ける。買いたいものもないし、買うことができないから、結局二泊三日で三〇ドル、一ドル百円として、三千円ほどしか使ってない。レストランがないから、食事もできない。
 ミンスクでは約束通り、送りがあって、無事モスクワに向かった。旅行に出る前に、インターネットで、モスクワの気温を調べたら、最低気温は、零下一六度、最高気温でも、零下一二度とか出るから、この低温に耐えられるか心配だった。ボクは温度計と湿度計は持参。結果はマイナス三度が最低だった。調べた時期が、最低気温だったのだろう。
 モスクワに着いて、入手した市内地図と、自分の感覚とを合わせる。地下鉄にも乗り、次回のシベリア鉄道の乗車駅を確認。クレムリンを徒歩で一周し、下見終了。
「赤の広場」で
 六月には、予定通り、シベリア鉄道に乗りに行きました。今回のホテルは、ロシア・ホテル。クレムリンのすぐ隣にある。
 今回も、シベリア鉄道の切符が届かない。ようやく出発日の朝に入手した。汽車が出発するのは夕方。「赤の広場」が見える。安堵感もあって、ちょっとレーニン廟でも見てこようと、カメラを持って散歩に出た。廟の入口に並んだ。衛兵が何重にも、守ってる。その兵士が、カメラは持ち込み禁止と言う。クレムリンを半周した所に、預ける場所がある、そこへ行けと言う。「お前に預けておく」と言うんだけど、アカン。で、カメラを預けに行って、入廟した。レーニンに「巡りあえた」という印象はなかった。まるで蝋人形だ。クレムリンの壁に埋められた、片山潜のプレートは、しっかり見つけたけれどね。
 クレムリンの中に入ったら、見せるところは教会だけ。ボクは、大会堂とか、会議する場所などを見たいのに、そこには絶対に入れない。オフリミット。
 ボクは、ずるいと思った。モスクワの街には教会がない。スターリンが爆破している。それなのに、クレムリンの中には、教会がいっぱいある。で、その教会しか、見せない。「そんなもん、あるかあ」と思いながら、ボクはクレムリン内を歩いていた。
 その「赤の広場」の前で喫茶店に入った。グム百貨店の一部だ。モスクワの買い物では、この一ヶ所だけ、ユーロが使えた。それが印象的だった。
 もう、そこら中、規則尽くめで、旅行の先行きの困難を感じた。
シベリア鉄道に乗る
 三〇年以上続けている、年に一度の二週間旅行は、今回は、シベリア鉄道に乗ることです。モスクワからウラジオストックまで、九二八八キロメートルか、九四五〇キロメートル。諸説ある。歴史的に、ルートが何度か変わっています。七泊七日か、七泊八日。時差が相当あるので、正確にわからない。一日に一〇〇〇キロメートルくらい走る。東京から福岡くらいかな。そのくらいの距離を毎日走るということですね。
 ボクは、シベリア鉄道旅行のために、地図を作りました。ロシアは現地時間が、九つの時間帯で区切られている。しかし、鉄道の運行は、すべてモスクワ時間なのですよ。ずーっと現地時間とは関係なし。ですから、モスクワ時間と現地時間と日本時間。その三つの関係が、ちゃんとわかるような図を、作っておかないと困るんです。例えば、イルクーツクでの下車は、四日目の二一時二五分、これはモスクワ時間。現地は翌日の二時二五分。おまけに夏時間がある。ものすごくややこしい! 年休の枠内で旅行を収めるのが、ボクの目的の一つだから、欠かせない準備ですね。
 ウラジオストックまでの直通便は、二〇両ぐらいのロシア号。奇数日発で、二日に一便ある。ノヴォシビルスクからウラジオストック行きが偶数日に入る。他にモスクワ発で、中国へ行く列車もある。うまく組み合わせれば、可能性はいろいろある。けれど、日本で情報収集をしても、ボクも、旅行社も不明だらけ。ともかく乗ってみるまで、ウラジオストックに行くには二日に一便だけだと思っていた。  軌間(レールの内側と内側の間)は、一五二四ミリで、日本の鉄道よりも広いです。車両は非常に大きい。客車、寝台車、貨車の図体は二倍ぐらいに見える。レールは非常に頑丈にできてます。多分貨物輸送が中心で、また、戦争の時には、タンクであろうと何であろうと、何でも運ぶ。その重量に耐えるための線路廻りは、関西私鉄などより、はるかに良かった。だから、日露戦争など、あそこで手を打ったから、日本の勝ちになってるけれど、あの時にはシベリア鉄道が一応できていて、ただしバイカル湖が連絡船で、ネックになっていた。だから長引いたら日本は完全に負けています。戦争時には貨車を使い捨てにしたそうですよ。あの輸送力というのは、もうすごい。  全線複線電化だと日本で聞いていた。けれど、現地へ行ったら、ハバロフスク周辺で、一部電化工事をしていた。ボクの大発見で、帰国後の一二月に、全線電化されたというニュースを聞いた。未電化の部分は、ディーゼル機関車で引っ張ります。電化区間でも直流部分と交流部分があって、一日に二〜三度、二〜三〇分停車する。機関車の取り替えには興味がある。次の区間に応じた機関車に替える。機関車の整備の必要もある。客車は駅に停車中。この時間が買い物のチャンスです。
 客車と車掌は、乗り換えなしで、モスクワからウラジオストックまで行く。車掌は、各車両に二人ずつ乗車。休憩や睡眠時間を確保しながら、交代で勤務している。車掌の私服姿も見かけた。この方法なら、トラブルがあった時には対応しやすい。通常は睡眠や休養している車掌がいても、緊急時には人手が確保される。そんなチームを組んでやっているようです。車掌の仕事の一つは、各客車のボイラーで、石炭の火を絶やさないこと。寒い区間を走る時には、それがスチームになって、各部屋を暖める。常に湯が沸いてるから、紅茶は簡単につくれる。昔は無料だったそうだけど、二四時間、いつでも飲める。なぜ石炭なのかの説明では、極寒の地を走るので、電気のヒーターでは、停電すれば、凍えて命にかかわる。石炭ならば安心とか。だけどボクは、それは正解だと思う。スローライフとか、資源活用の観点からも、非常に「進んで! 」いるのだ。
 シベリア鉄道のボクのイメージは、「平原を一直線で走る」だった。しかし、アムール川の周辺の工事は大変だったようで、ハルビンを通る「旧東清鉄道」が本線だったこともある。ルートはたびたび変わる。低湿地はなるべく避けて、平原と小山がある境目、山ぎわの人間が生活しやすい所を、縫うようにして走っている感じです。九二八八キロありますから、全線のどこかの区間で工事をしてる。日本の国鉄でのレール交換工事は、夜中の四時間ほどで、レールを取り外して、取りつけて、時間内に走れるようにする。ここでは、一〇〇キロとか二〇〇キロをバーンと片側通行にして、そこだけ単線運転にする。その区間の運転は、当然、時間がかかる。そのことを含んでダイヤを組んでいるから、ダイヤは再三変わる。ロシアでは、昼間にバーンと区切って工事をする。時間には余裕があり、接触事故の危険もなくて、合理的。
 窓の景色を見ていると、モスクワからの一キロごとの距離標(モスクワのヤロスラヴリ駅からのキロのポイントの柱)を発見。九二八八キロ、その一キロごとのポールが、九二八八本立っている勘定。一キロの中には、一〇〇メートルごとの副標があり、一〇〇メートルを走る内に、レールの継ぎ目で、四回音がする。すなわち二五メートル長のレールが使われている。それが主流です。だから距離も速度もわかる。案内書に「何キロ地点に、A駅がある」と書いてあったら、大体見当がつく。今、どのあたりを走っているか、鉄道員ならばこそ、見えるものがある。例えば、ウラル山脈のヨーロッパとアジアの境目に、碑があるんだけれど、その境界碑は、ちゃんと見たもんね。
駅での商売
 機関車を交換する駅では、物売りが来た。人々との交流がある。ベルリンの壁が崩壊した後に、商売ができるようになった。それまでは商売をすれば即、逮捕だったと聞いた。


ベルリンの壁の崩壊前は、逮捕された停車中の買物風景

 食堂車がないので、腹が減っても、減らなくても、好んで買い物をした。売り方は、エプロンを広げて売る者から、乳母車にものを乗せてくる者とかね。飲み物や畜産物や農作物と、その加工品。餃子とか、ピロシキなども売ってる。にんじん、玉ねぎ、ピーマンなどの野菜は、生のままラップに包んだだけ。客はこれを、そのまま齧っているのだろうか。そばに川がある駅では魚とか、干物も売っていた。鍋に入れたままの、蒸したジャガイモを見せる。韓国製のカップ麺もある。売る量は少量。両手に一つずつ持って「いりませんか」とか、少量。印象的だったのは、なんでも全部、一緒の値段。なんでも、どの店でも一〇ルーブル。一ルーブルが四円ですから、日本円で四〇円ぐらい。それに、値段を交渉して「負けろ」と言っても、おつりも持ってない。また、モスクワ周辺は一〇ルーブルだったのに、ウラジオストックに近づくにしたがって、値段が高くなっていき、一五とか二〇になる。これも面白かった。だから、商売はできるようにはなったが、値段のつけ方が解らないのかも。何を買っても、返ってくるのは、「一〇」。価値に差がない。まるで、配給券の「上着券」とか「ズボン券」のよう。その交換切符の代わりに、お札が使われてる感じだ。値段があって、ない。生産費用からの値段ではなく交換券であって、それが一〇ルーブル札に変わっただけだと、ボクは理解した。これでも貨幣経済なのか。不思議な感じです。ロシア語ができたら、そのへんのことが聞けるんだけど。
話せば通じる
 モスクワからウラジオストックまで直通で乗り切ろうか、とも考えた。しかし、途中のイルクーツクで下車。三泊して、バイカル湖に行った。ボクは一人旅です。コンパートメントは二段ベッドに四人。話ができなければ、七日間ですから恐怖です。危険を分散した。今回の場合、後半では、夫婦に一〇歳くらいの女の子一人で、三人固まってしまって、話ができない。悪くはないけれども、面白くもない。前半の方は良くて、そのまま乗った方が面白かったかも。


国際交流に言葉は不要。ロシア号の車内で語る。(真ん中は筆者)

 お互いにしゃべる気にさえなれば、言葉の壁は主要な問題ではない。話はできる。後半は、向こうが話す気がなかったから、話せなかったのだ、たぶん。前半の四日は、いろんなことをしゃべった。時間はたっぷりある、あまり過ぎるほど。お互いに話したいと思っている限りは、通じるものだ。四人の組み合わせは、一人はノヴォシビルスクまで来た、若い青年。もう一人は、親はウラジオストックに住んでいて、サンクトペテルブルグの大学の法学部で学んでいる、若い女学生。もう一人はウクライナの人で、ウラジオストックに住んでいる、おつれあいに、会いに行く女性。夫は、ウラジオストックと伏木港をつなぐ定期船の船員で、本人も近々ウラジオストックに住む予定だが、今はウクライナに住んでる。一万キロの恋。なんてロマンチック! 片道一〇日はかかるんですよ。交通費は飛行機なんかよりもはるかに安いから。飛行機なら、ほぼ十時間程度。鉄道は一週間以上かかるからね。考えてみる。エネルギーの消費量は、物理学的には、速度の二乗に比例するはず。だから速度が十倍になったら運賃は百倍になる。概略ね。
 若い女子学生は、片言の英語ができる。ボクは、ロシア語文と日本語文を併記した本を持っている。『私は何々が食べたいです』というような文を示すことで、話す。だんだん打ち融けあってきたら、いろんなことがしゃべれる。例えば『私はあなたが好きです』と書いてある文を示しながら、『これ違う』(指で×を書くポーズ)とやると、冗談が通じる。このように、「二〇〇三年は(今年ですね)サンクトペテルブルクができて何周年かの記念日なので、ぜひ遊びに来い」とか、遊びに来る時には住所ここ、とかいう話をした。非常に楽しい前半だった。
イルクーツクとバイカル湖
 途中下車はイルクーツクに決めた。バイカル湖は、以前から興味があった。これは琵琶湖と似た湖で、共に陥没湖です。琵琶湖も、バイカル湖も、まだ深くなってるんですよ。地球の皺だと思ったらいい。両方とも古い湖だし、琵琶湖には雄琴温泉があるでしょ? 近くに温泉があるかもしれないとかね。旅行の準備は、常に、雑多な知識を拾い集めておくこと。
 駅では、迎えがあって(日本語がわかるモンゴル人)ホテルへ行った。目的の一つは、シャワーを浴びること。オーストラリアの寝台車には二車に一台シャワーがあった。ロシアの鉄道にはシャワーはない。夜中にホテルに着いたら、ガードマンしかいない。部屋に入って、蛇口ひねっても湯が出ない。「湯が出えへん」と言った。そうしたら、ポットに湯を入れて持ってきよる。「そういう湯とちゃうねん、シャワー、シャワー」こんな会話。結局、翌日マネージャーが出てきたんだけれど、通じない。そればかりか「イルクーツクのホテルは、すべて湯が出ません」とか言うの。「あほか!」官僚主義もええとこや。「そんなことあるか。零下何度になるようなところで、湯が出ない、なんていうようなことあるか」かんかんに怒って、机をたたきながら「すぐ電話かけろ」「旅行社呼べ」。そんなのは日本語でいいんだから。すると、すぐ旅行社が飛んできて、「このホテルは湯が出ない。だけど、契約書では、湯が出ると聞いてきたし、衛生的にも悪い、このホテルはあかん」と言った。「旅行社で、イルクーツクにホテルをたくさん持っているでしょう。同程度のホテルでいいから、湯が出るホテルを探せ!」と。ボクは不当な要求はしていない。そうしたら、すぐ探してきた。どうぞって。あたりまえや。
 湯が出るホテルは手に入れた。今度は、バイカル湖に行く方法が見つけられない。世界地図で計画したので、イルクーツクからバイカル湖までの距離を、「琵琶湖と大津の関係」程度と考えていた。が、七〇キロと判明。バスもバス停も不明。昼過ぎになって、朝にケンカした旅行社に頼むしかない、と見切りをつけた。何が幸せかわからない。タクシーで住所を示したら、郊外に向かって行く。が、見つからない。今度は、電話番号を示し、電話して確認してもらったら、旅行社は市内にある。住所が違っているのだ。旅行社に戻って、日本語の通訳を介して、旅行行程を組んだ。そこで新しい「バイカル湖ツアー」ができてしまった。バウチャーは、手続き上の形式なのだ。


バイカル湖は氷河時代の琵琶湖のようだ

 運転手兼、案内が付く。なぜ一人で旅ができないのかと聞く。「ここにはユーラスツアーがあるではないか、あなたのために私がいるのだ」と。「あほか!」と思ったけど、言わなかった。自由旅行といっても、この程度。料金は高い。せっかくここまで来たし、二度三度来れるところでもないので、ツアーを組んだけれど、ぼられた感じは残る。事務所で二時間ほど話したけれど、仕事は暇そう。その間、四〜五人が、取り囲んで話を聞いている。日本語の勉強を兼ねている様子もあったが、彼らに仕事はない。その分を日本の金持ち旅行者から、巻き上げようとしてるのかも。彼らはそれで生活してるんだから。
 バイカル湖畔のホテルで泊まることにした。「案内は片道だけ。ホテルからイルクーツクまでの帰りは、ボク一人で、なんとかして帰るから」と計画。そのホテルに着くまでに、湖を船で一時間ほど遊覧。博物館を見学。湖の平均水温はプラス四度。湖が深くなっていることも確認。水生や、陸生動物の展示も見た。環境は、琵琶湖より相当厳しいようだ。ホテルでは料理を注文してくれて、別れた。翌日の帰りは、バスが一日に四便で、バス停も時刻も不明。それでも、なんとかバスで帰った。バスの値段は一〇ルーブル。人民の交通費は安い。だけどこのツアーは、米ドルで、かなり払いましたよ。
世界に開ける港町
 終着駅のウラジオストックに着いた。街は港町です。非常に開けている。日本との定期船も就航。だから、日本語しか話せない人間がいるということを、彼らは認めている。街を歩いていても、日本語で話しかけても、びっくりしない。それなりに対応してくれる。日本のトヨタの中古車も走っている。日本の市バスが、行き先表示もそのままで、走っている。ハングル表示の中古車もある。港町というのは、世界に開かれているのだと思う。こういう街は、歩いていても、ゆったり気分。街の人に話しかけても、「何か要求があって、話しかけている。しかし違う言語だ。要求が、なにかある」と考えてくれたら、なんとかして、伝えることができる。もちろん、こちらはお金を払うつもりなので、ものは買えるし、サービスも受けられるし、何でもできる。びっくりされて、逃げられたら、もう、どうしようもないものね。
 モスクワの話に戻るけど、モスクワの地下鉄は迷路のようで、「赤の広場」の近くの駅は、地下一〇〇メートルで、四路線が一緒の大きな駅です。乗り切りで、何回乗り換えてもよい。だから地下鉄駅は迷路で、全然わからない。はじめ、男の鉄道員に聞いたら、一生懸命ロシア語で説明する。わからないので別人を探す。もとは社会主義の国、鉄道員も女性は多い。おばあちゃんがいる。鉄道員ということは制服でわかる。ボクが泊る、外国人専用ホテルの駅へ行きたいと、その駅名をロシア語で書いたのを見せたら、ちょっと待て、としぐさをして、老眼鏡を出してきて、それがちょっと大変だったのか、むっとしていたが、わかったら微笑んで、目の前のエスカレーターを指差して、「あれ、上がって、向こうへ行って、下りて、OK」それだけ。それで行けてしまう。これは言葉で説明しようとするからダメなので、経験の重みというのは、こういうことではないか。相手が何を求めていて、それに応じる最短を見極めて、簡潔に伝える。それだけでよい、という知恵があれば、何にも恐れることはない。熟練した労働者の智恵だ。
 ウラジオストックでは、町の人たちにこれと同じような気分がある。言葉は、通じなくても、違和感は少ない。すでに、国内旅行の感じだった。
 ウラジオストック航空は、うまい具合に最近、ウラジオストックから関西空港までのルートを開通していたので、ワン・ルートで、ガアっと飛んで帰ったのです。

ウラジオストック発一二時三〇分
    関西空港着一二時四〇分
    所要時間は二時間一〇分

 帰国した日、郵便物の山の中に「平壌の古墳見学会の御案内」の手紙を見つけた。
 次回は「朝鮮半島の南下計画」の話!(つづく)
杉 勝利(すぎ かつとし) 略歴と旅行の概要
〈プロフィール〉
●勤続39年の鉄道員。
年に一度は二週間の旅行を30年以上継続中。
国内・国外ともに、一人旅が原則。
●国内は、利尻、礼文、根室、小笠原、生月、対馬、座間味、西表、与那国、波照間を含む、1道1都2府43県に足跡。
●訪問国は、フィリピン、オーストラリア、イギリス、フランス、ギリシア、オランダ、デンマーク、スイス、イタリア、エジプト、ドイツ、トルコ、アイルランド、ポルトガルなど、40ヶ国を越える。
〈略歴〉
1945年  8月生まれ。
1964年 18歳 就職
1965年 20歳 広島への初旅行
1970年 25歳 長崎への初旅行
1975年 30歳 沖縄への初旅行
1984年 39歳 東海道を歩く
1987年 42歳 フィリピン(初出国)
1991年までは、フィリピンに7回旅行
1992年からは、諸国歴訪
2002年 56歳 3月からほぼ毎月旅行
2002年 57歳 10月 英検5級合格
〈ここ1年の旅行〉
(1) 東欧 〈ベルリン〜モスクワ〉2002年 3月 8日〜2002年 3月17日 10日間
(2) シベリア鉄道の全線     2002年 6月11日〜2002年 6月25日 15日間
(3) 高麗古墳〈平壌〜開城〉   2002年 7月20日〜2002年 7月24日 5日間
(4) 満鉄  〈ハルビン〜大連〉 2002年 8月20日〜2002年 8月28日  9日間
(5) 燕京  〈大連〜天津〉   2002年 9月17日〜2002年 9月25日  9日間
(6) 北朝鮮 〈新義州〜板門店〉 2002年11月 7日〜2002年11月17日 11日間
(7) 慶州  〈釜山〜慶州〉   2002年12月30日〜2003年 1月 3日  5日間
(8) 南朝鮮 〈ソウル〜釜山〉  2003年 2月26日〜2003年 3月 6日  9日間
(9) 台湾  〈基隆〜高尾〉   2003年 4月 1日〜2003年 4月 9日  9日間
(10) 全球旅行〈世界一周〉    2003年 5月21日〜2003年 6月11日 22日間