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連載「鉄道員のゆうゆう「世界」ひとり旅」
連載・その2「朝鮮半島南下の旅」


平壌方向を望む。臨津江鉄橋を越えて南北をつなぐ「鉄路は工事中!」。開城駅まで10Km。

こだわり
 朝鮮半島は地理的にはもっとも近い国です。しかし、ボクにはいくつか、わだかまりがあって、旅をしたのは二〇〇二年が最初です。
 朝鮮半島が、戦前は日本の植民地だったことを、ボクは無視することができません。
 五〇年、朝鮮戦争が始まったのを、明瞭に記憶しています。
 八六年以前は、自分で「旅は国内旅行に限定する」と決めていたので、対馬まで行き、千俵蒔山(せんびょうまきやま)から釜山(プサン)を見ました。その頃、金達寿の『対馬まで』という本を読みました。在日朝鮮人は、対馬から祖国を遠望することしか、できなかったことを知りました。
 八七年、初めてパスポートを取ったときには、「北朝鮮は除く」と書かれていました。
 九四年、運転士二五周年を記念して、鉄道発祥の地を見るためにイギリスに行きました。ソウル経由の大韓航空機内で、日本の女性観光客が、乗ってきたソウルの銀行員に通訳せよと言う。「兄弟のように似ていますね」と女性。銀行員は「日本語はわからない」と言うが、顔色が「能面」のようになった。ボクは即座に事態を察知。翻訳は可能だったが、しなかった。「かつて、日本が兄で、朝鮮が弟だとして、この比喩で支配した」歴史がある。ボクは日本女性に、乏しい知識を総動員して「日朝関係史」を講義するはめになった。銀行員の顔は、徐々に人の顔になってきた。講義を見ていた銀行員は、日本語が判っていたと信じています。ボクたち日本人の歴史認識のなさを痛感した場面です。
 帰りは飛行機が遅れ、伊丹空港は二一時の発着制限のために金浦空港で足止め。ホテルに泊まることになり、トランジットとしてバスの窓からソウルを覗きましたが、日本の紙幣に、伊藤博文や「差別主義者」の福沢諭吉が描かれていることも、ボクの気を重くしていました。
 世紀がかわり、シベリア鉄道経由という回路を経ることで、そして「自分の目で見て、考えよう」と考えるようになって、ようやく旅の決意はできた。まったく「遠い国」でした。決意はしても、自らに条件を課して「鉄道と船を使って、京都まで路線がつながるようにする」と考えていて「ロシアの南下政策」を文字って、「朝鮮半島の南下計画」と呼んでいました。
 旅行中は、藤原てい著『流れる星は生きている』を、いつも持っていました。「植民地からの引揚げ」をイメージしていたようです。ボクの南下の旅は「引揚げ追体験の旅」と、「鉄道員であること」へのこだわりだったようです。
 問題は、どうしたら北朝鮮(朝鮮半島の旅行記なので以後原則、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」、大韓民国を「南朝鮮」と表記する)の一人旅ができるか。どのように三八度線を通過するか。そもそも、そんなことが可能なのか。困難は限りなくありました。


朝鮮半島と中国の一部の地図

用意周到かつ臨機応変
 一人旅は「用意周到かつ臨機応変」でなければなりません。長期の展望としては「用意周到」に計画し、それぞれの局面では、「臨機応変」に対処する。これが、実践から学んだ旅の智恵です。
「待てば海路の日和」です。二〇〇二年六月のシベリア鉄道の旅のとき、ソウル経由だったので、ソウルに一泊追加した。これがボクの朝鮮半島の初訪問となりました。
 そのシベリア鉄道から帰宅したら、郵便物の中に「高句麗古墳ツアー」の案内があったのです。即、参加を決意。七月二〇日から平壌(ピョンヤン)と開城を中心に「高松塚古墳」クラスの壁画古墳を七つも中に入って、見た。このツアーで、一人旅の手法が見つかりました。これが二回目。道は開きはじめたのです。
 八月には、「旧満鉄」の旅をしました。ハバロフスクからハルビン、瀋陽を経由して大連まで行きました。 これでウラジオストックから大連まで鉄道でつながったのです。この旅の途中、ハバロフスクで、二二日に金正日総書記と遭遇した。勝手に「招待状を貰った」と解釈することにしました。準備は整いました。これらの知識をもとに、本格的なボクの旅を始めることになります。三回目は、一一月に北京から鉄道で瀋陽と丹東を経由して、北朝鮮に入国。平壌からは乗用車で開城(ケソン)と板門店へ。同じ経路を引き返して、瀋陽に着きました。
 四回目の入国は、その瀋陽から日本に戻る飛行機が、ソウル経由だったので「南側からの板門店行き」を旅行社に打診すると「可能」とのこと。それならと、二日延長してソウルから「板門店ツアー」を組みました。「北から板門店」訪問四日後の「南から板門店」です。この方法で「三八度線を通過しよう」との計画です。
 職場が変わって、急に正月に休暇が取れることになりました。職業柄、かつてないことです。それで急遽、釜山と慶洲(キョンジュ)に行くことにしました。これが五回目の入国です。
 六回目は二〇〇三年二月に、南朝鮮の縦断旅行。まずソウルから鉄道で北進。鉄道は南北鉄道の締結工事のため、臨津江(リムジンガン)駅で行き止まり。バスで都羅山(トラサン)展望台(板門店が見える)まで行き、第三トンネルに潜り、臨津江駅から鉄道で南下して、水原(スウォン)、大邱(テグ)、釜山を観光。関釜連絡船で下関港へ。ここで「日本への入国」手続き。ボクの「引揚げの追体験」です。下関からは、鈍行を乗り継いで「京都に帰り着く」ことにしたのです。
 二〇〇二年六月から、翌年三月までの九ヶ月の間に、朝鮮半島に六回入出国しました。初めからすべて計画していたのではないのですが、できてしまったのです。
対馬まで
 就職して旅行を始めたころ、一ドルは三六〇円に固定されていました。お金はないし、英語が不得意なこともあって、「海外旅行は、しない! 」ことに決めていました。イソップ寓話の、高くて取れないブドウを、酸っぱいブドウだと言った「キツネとブドウ」の話にそっくりです。
 国内旅行は、北海道で、国後島の爺々岳が噴火した煙や、樺太を見た。沖縄の与那国島からは、台湾を見た。「まったく日本は広い」ことを実感しました。八〇年から五年間は、「隠れキリシタン」を知りたくて、長崎県の五島列島や生月島などに、何度も通いました。八五年には対馬に行き、南から北まで一一〇キロを歩いて縦断。そのとき「釜山が見える」という千俵蒔山に登り、朝鮮半島を見ました。
 その頃、金達寿の『対馬まで』という小説を読んだのです。在日朝鮮人の多くは、日本国政府の都合で連行(拉致)してきたにもかかわらず、戦後も一貫して分断・差別政策を取り続けています。在日朝鮮人は「再入国許可」の問題などで、祖国との自由往来ができなかった。帰りたいけれども、帰れないという話です。今は若干緩和されたようですが、日本国政府は戦争責任・戦後責任は果していないと、ボクは思っています。「祖国が統一されるまでは、帰れない」。日本国内で、祖国を見ることができる唯一の場所、対馬の千俵蒔山から、望郷の涙で見つめる話です。『対馬まで』です。
 小説なのですが、登場人物は、ボクには心当たりがあります。京都で知り合いの人物なのです。もともと朝鮮半島に住んでいた人々が「帰れない」と思っている限り、彼らの故郷朝鮮半島に、植民地にしていた日本国籍を持つボクが、どんな顔をして旅をするのか。理不尽というものではないか。当時も、今もそう思っています。
北朝鮮へ鉄道での一人旅
 古墳ツアーで、ピーター・フランクルに出会いました。ハンガリーの数学者で、テレビで大道芸を見せる人です。彼は一人で旅行中。「北京から北朝鮮に入る。ガイドを付けることで、一人でも旅行できる」という話です。「しめた!」。
 北朝鮮へ入国する時は、日本とは国交がないので、国交のある中国を経由することになります。公館のある北京とか瀋陽でビザを受ける。その手続きと切符の手配は、北京駐在の朝鮮国際旅行社がしてくれます。
 国際列車は北京から、列車のうしろ二両だけ。客は段ボールを精一杯持ち込みます。若い女性は、化粧に余念がない。腹が減ったので、食堂車に行こうとしたら、行き止まりで困っていたら、同室の人が弁当を分けてくれた。こういう時は、本当にありがたい。夜行列車は、中国内は順調に進んで、鴨緑江の都市の丹東(タントン)には、翌朝の七時三〇分、定刻に到着。鴨緑江の国境線です。川幅は一キロくらいだが、雰囲気はがらりと変わる。北朝鮮の新義州駅の発車は一三時五〇分。国境線の通過は時間がかかる。出入国の手続きと、列車の編成換えがあり、機関車は、ディーゼルから電気に変わる。ここで食堂車が連結されました。「ガイドは客席には入れない」ということなので、食堂車で話をしました。線路の整備は良くない。列車の速度も四〇キロくらい。途中で停電があって、一時間半ほどの停車。暗くなっても話はできる。平壌のゴルフ場の社長とも話をした。平壌にもゴルフ場があるのかと思っていたら、「ぜひ、いらっしゃい」と誘ってくれたので、市内観光の途中に見てきました。平壌到着は三時間二〇分遅れて、二二時五〇分に着いたのです。


左の中国列車に、右の北朝鮮の車両を2両連結した国際列車。

 駅前の高麗ホテルは、超豪華。帰国後に「曽我さんの残留家族」の会見記事を読みましたが、同日の同じホテルでした。
 列車の到着が遅れたために、ホテルのロビーは静まり返っています。食事の準備がない様子です。ガイドは、これに猛烈に抗議。ボクとしては、疲れてもいるし、「営業中の軽食のできる喫茶店で、簡単な食事でよいから、早く寝たい」と何度も言うのに、ガイドは延々と抗議し、結局は、料理人をたたき起して、食べきれない量の豪華な食事を用意させた。広くて立派な食堂でボクひとり。「これが、この国のもてなしのパターンなのだろう」と、腹立たしくもあったが、「妙に納得もした」ものです。
銅像前では貨幣論議
 ガイドは翌日、「はじめに万寿台の金日成主席に、花束を持って挨拶に行きましょう」と言う。ボクは「それは了解。ただし、その花束はボクが買いたい」と応じました。
 入国したら、まず両替が旅の鉄則。二日目なのに、通貨の顔を見ていない。大きな不満です。それに古墳見学以降の八月一日から、貨幣制度が変わっていて、北朝鮮はもう貨幣経済になっているはずなのです。ボクは自分の金で、花束を買いたいのです。
「ホテルで両替はできる。けれども、両替をした場所でしか使えない」「そんなのは、通貨ではない。どこでも使えるから通貨だ」。ボクとガイドは、主席像の前で、延々三〇分くらい「貨幣論議」。きりがないので、だいたい様子がわかったので、ボクは折れた。しかし、たばこを買いたいとか、あらゆる機会にお金を使う努力をした。
 路面電車と、地下鉄に乗った。地下鉄建設博物館と、鉄道史博物館にも行きました。案内係の女性が民族服でお出迎え。館長と思える男性もついて来ます。説明は丁寧だが、ボクは鉄道員。「鉄道運転の基礎」を確認したいし、間違いも指摘する。一通りの案内には納得しない。館長も答えられないことがあり、ボクが説明役を買って出ることも、しばしば。どうも鉄道員ではないようです。
 平壌冷麺の昼食のときに、ガイドの上司が来た。ボクがあまりに議論をするので、ガイドが上司を呼んだものらしい。この人は古墳見学の時のガイドだったので、再会です。ボクは事情を説明して「ボクの意に沿うことが、もてなしだ」と希望を伝えました。また、「金正日でもあるまいし、食事の質は落としてほしい」と言うと「呼び捨ては困る。総書記と呼んでほしい」「ごめん(笑)」など、打解けた会話をした。それ以後、ガイドの様子は変化し、散歩も増えた。主張した甲斐があったと思っています。
 この日は開城の民族旅館に泊った。食事は豪勢で、女性が給仕をしてくれた。民族旅館にチマチョゴリは心地よい。しかし、電気は二時間程度の点灯。オンドルは電気式。外は、もう氷が張っていました。ガイドにはオンドルがなかったと聞く。たぶん、宿泊者はボクだけで、そのためにディーゼル発電機を回してくれたのだろう。平壌に着いた日にガイドが「二泊を一泊に変更してほしい」との申し出も、了解できます。国際列車の停電によるストップなど、「電化は進歩」という考え方が、裏目にでているようです。


貧乏旅行がしたいのに、毎食、豪華なメニュー(左・開城の昼食)。
お願いして、こんな食事にしてもらった(右)。手数が掛ったかもしれない。


板門店を「北」から「南」から
 翌日、板門店へ向かう。何度も検問があって、緊張が増してくる。板門店の軍事停戦委員会会議場の手前に、停戦協定調印場が存在したことは知らなかった。ここでの協定の結果、現在の「共同警戒区域と、その中心になる会議場」ができたと聞いた。


朝鮮戦争はまず、ここで停戦協議された。会議(見学)を終えて、記念写真。

 共同警戒区域は、共和国軍の若い兵士が一人ついて、案内してくれた。銃器は見えない。ボクが一人旅で、ガイドと兵士が知り合いということもあって、終始リラックスしていて「想像していた、三八度線の緊張感」は、ないに等しく、何を聞いても答えてくれる。軍事地帯なので、写真撮影は自己規制もしていたが、拒まれたことはなかった。そのような雰囲気にしているのも、一種の宣伝ではあるのだろう。
 三八度線上には七つの会議棟がある。建物の補修は、南北での担当が決まっていて、色分けされている。
 案内されて、三八度線上にある、まん中の建物に入る。三八度線は、部屋の中央にも厳然と通っている。部屋の真中にデスクがあって、マイクの線が境界線だという。この建物の出入りや運用は、南北が「交互にやる協定」になっている。部屋の中の南朝鮮の側へ通じる扉は封鎖されていて、その前には二人の共和国軍の兵士が立っていて、通り抜けることは不可能。しかし部屋の中では、三八度線は自由に越えられる。部屋の中は自由なのだ。部屋の外ではコンクリートの三八度線に沿って、兵士が緊張し、直立して監視している。ボクは、南側の壁に掲げられた「連合軍の国旗」の下の壁を両手でタッチして、位置を覚えておくことにした。


38度線デスクを北側から撮影。背景は「国連軍参加国の国旗」と共和国兵士。

 停戦委員会会議場を出て、北側の休憩所の「板門閣」の二階で、兵士にたばこを勧めた。気楽に応じる。ガイドと三人でソファーに座って三〇分ほど話をした。彼はイラクのことなど、国際情勢もよく知っていて、「拉致された五人の日本人の帰国」のことも話題になった。ボクも、関東大震災のときの朝鮮人虐殺や、戦後補償問題などを話した。彼もいくつか質問してきて、ノートにメモしていた。別れぎわ、兵士は「あなたは、まだ若いから、帰国したら政治家になって、日朝交渉をやりましょう」などとおだてられた。興味深い訪問でした。


北朝鮮から38度線の会議場越しに南側「自由の家」全景を見る。

 ところで、この北朝鮮の旅は中国経由で、大韓航空機だった。瀋陽から乗る飛行機はソウルに着く。そうならば「北から板門店に行った直後に、南からも板門店に行けないだろうか」と考え、ソウルからの「板門店ツアー」を計画した。板門店の共同警備区域に、北側から入った四日後に、再び南側から入ることを、ボクは計画した訳です。
 ソウルからの「板門店ツアー」の大型バスの中では、「パスポートは持っているか。スカートは禁止。走るな。指示には従え。変な行動をすれば、ピストルで撃たれる。命の保証はない」などの注意を何度も受ける。再三の検問。バスの乗り換え。「命の保証をしない確認の宣言書に署名」など、緊張を強いる。警備の軍人は、ほとんど韓国軍なのだが、肝心なところは米兵がピストルを見せつけて指揮をする。「一六ヶ国の国連軍」とはいうが、実質的には米軍の支配下なのだと思う。写真も数枚しか撮れない。些細な注意は従うことにした。


4日前に、共和国兵士と会談した板門閣を、南側の監視台から見る。

 帰国後に気づいたのですが、板門店を紹介するリーフレットなどで、三八度線越しの建物の全景写真には、双方ともに、相手側の建物が写っている。
 三八度線上にある七棟の会議場は、それぞれ会議の目的が違うらしい。観光客が入れるのは、南北共に、まん中の建物のみ。だから北朝鮮側から入った同じ部屋に入れた訳です。今度は、北朝鮮へ通じる扉が封鎖されていて、「運慶作の阿吽像」のような屈強な兵士が二人、肩をいからせて、いつでもピストルを抜ける状態で、南側の入り口をにらみつけている。目は、人を見ているのではなく「異常な行動」の監視なので、気持ちが悪くなるほど異様だ。ボクは、行ける一番北の壁をタッチし、北側から入った時にタッチして覚えておいた「連合軍の国旗」の下で、両手でタッチしておいた位置を、そっとなでてきた。すなわち、『このタッチで、三八度線を通過できたと思う』ことにしたのである。北からも南からも同室に入れたので、「これで道は完全につながった」と考える訳です。「異議ありますか? 」。
 このようにして、ボクは『三八度線を通過』することに成功しました。
開城と平壌
 開城では、博物館の見学などをはぶいて、ゆっくり街を散歩した。来たことがある満月台の城跡を見た。ガイドとの討論の成果が出てきた感じで、おおいに満足。
 平壌への帰路、開城の近くにある「朴淵(パギョンポッポ)の滝」を見に行った。開城から二五キロくらいの距離だろうか。水量は少ないが、高さ三七Mの立派な滝です。まわりの岩肌には、たくさん漢字で、名前が彫ってある。手間をかけた落書きです。朝鮮文字は、スローガンなのだそうだ。散策のつもりでガイドに付いて歩いたら、どんどん登っていく。そこには古刹、観音寺の大雄殿があった。住職に会えて、しばし閑談。「社会主義」の北朝鮮だが、こんな山中にも仏教は生きていた。平壌には仏教の学院があって、毎年一五人ほどが僧侶になるという。
 平壌へ入ったら、街は真っ暗。政治スローガンにだけ照明がある。計画停電のようで、一部地域は点灯している。ホテルは停電なし。クーラーには電圧安定装置が付いている。かなりの負荷があって、無理をしているのが推測できる。
 翌日は、鉄道博物館と主体思想塔を見た。ここでは街を散歩できました。交通は徒歩が主体で、歩く人にインタビューも試みた。ボクの旅に近づいてきた。けれども「見たものには、旅行者としての限界」があることを、忘れないでおきたい。
 別れの日、駅の待合室で、ガイドが各種の紙幣を用意してくれていた。北朝鮮に来て初めて見る紙幣なのだが、ガイドの好意がうれしかった。汽車の発車を待つ間に、雪が降り始めた。「北朝鮮は閉鎖されてはいない。そのように見えるのは、文化の違いではないか」そう思った。また来ることを心に誓う。
 列車は、経済速度の四〇キロくらいだが、帰りは停電はなかった。鴨緑江の橋を渡りはじめたら、乗客が一斉に携帯電話をしはじめた。壮観だった。香港などにも通話している。ボクは、ひとりで笑うしかなかった。中国の丹東駅を発車したのは定刻。北朝鮮内でのゆっくり運転は計画的なものだと理解した。速度が高上したので室内の電灯も明るくなった。各客車の車軸に発電機が付いているので、速度が低いと物理の法則によって、電圧が確保できない。電灯の明るさにもスピードが必要なのだ。
 瀋陽で深夜に下車。ホテルに泊って、翌朝空港に向かう。空港での待ち時間に免税店をのぞいていたら、店員は気もそぞろで、テレビに注目。胡錦濤総書記が就任演説をやっていた。中国共産党大会が終了したようだ。
正月は、釜山と慶洲
 二〇〇三年の正月は、慶洲の仏国寺(プルグクサ)で迎えた。路線バスは、市内でも日本の倍の七〇キロほどのスピード。仏国寺の極楽殿の石組みに見惚れていたら、日本の三人の若者に出会った。一緒にハイキングで石窟庵(ソッグラム)に行く。のんびり歩くと、時間はゆったり過ぎて、気分が豊かになる。話の中で、女性が夕食に「韓定食」を予定してたので、慶洲まで「濡れ落ち葉」になる。市内は、煙突のような古代の天文台・膽星台(ろうせいだい)や、古墳がたくさんある。「はじめて来たのに、なつかしい」感じ。「韓定食」は、二つのテーブルに、三〇種以上の料理が並ぶ。豪勢、満腹、大満足で彼女は慶洲の宿へ、ボクは仏国寺の宿に別れた。


超豪華な韓定食。これで2人分。ハイキングの後でも食べきれない。

 翌日は、慶洲の天馬塚古墳や、駅前の市場を覗いて、午後は鈍行で釜山へ向かう。次回のために、関釜連絡船などの下調べ。「対馬」を見たいと、太宗台(テジョンデ)に行ったが、雲がかかっていて見えなかった。残念。夕刻に、西面(ソミョン)の屋台で刺し身を食べる。さすが港町でネタは上々。元旦なのに、街なかでは変化が見えない。たぶん旧暦が生きているのだろう。街の感覚も「おおよそ、わかった」つもりになって、帰国した。
南朝鮮の縦断を開始
 最終コース、南朝鮮のソウルから釜山までの九日間の縦断旅行の前日、二月二五日に盧武鉉(ノムヒョン)氏が、大韓民国の新大統領に就任しました。
 仁川(インチョン)空港からソウルに向かう。空港は島にあるはずなのに、なぜか陸続きだ。よく見ると干潮のためだった。朝鮮戦争のときの国連軍「仁川上陸」は、どのあたりだったのだろうか。
 ホテルを探す前に、民衆運動のセンターだと聞いていた明洞(ミョンドン)大聖堂に行った。儀式の最中だった。夕闇の中の赤レンガの建物は威厳がある。
 翌日はまず北進。ソウル駅から鈍行に乗る。単線で、線路ぎわの池は結氷している。臨津江(リムジンガン)駅で行き止まり。遠くに案内所が見えたので、そこで聞いてみたら「都羅山(トラサン)までの鉄道は工事中で運休」という。鉄道の南北接続の工事に違いない。バスツアーがあったので、ツアーで都羅山展望台と「南侵第三トンネル」を見る。板門店の建物が遠望できた。ここからが「南下計画」の開始です。
 ソウル駅で乗り換えて、水原(スウォン)まで前進。駅前で反戦市民運動のデモに出会う。参加したかったが、気がせいてホテルを探す。
 水原華城(ファソン)は、周りが五・七キロある城郭都市。城郭を歩くことに決める。一八世紀末に正祖王が、王宮内の権力闘争を避けるために、遷都の予定で築城した。できあがったが、王の死去で遷都は中止。世界遺産だというが、ボクは水原も知らなかった。遷都選定のきっかけとなった正祖の父の墓・乾陵は、華城の南八キロにあると聞いた。次回に見たい。
地下鉄火災事故の現場を見る
 沙也可(さやか)という名前を聞いたことがある。鹿洞書院(ノクドンソウォン)も記憶にある。けれど手がかりは、このくらいです。
 「三・一独立運動」の記念日に、セマウル号で大邱に向かう。地図を見ていたら地名が見つかった。可能性がありそうなので目指すことにしました。
 沙也可は、秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱)に先鋒で上陸した武将で、いくさが道義に反すると考えた彼は、反旗を翻して投降・帰化したという。こんな筋を通す人物が日本にもいて、それを朝鮮は受け入れた。愉快な話ではないか。司馬遼太郎の『韓国(からくに)紀行』で沙也可のことを知った日本人が訪れるという。ボクは帰国後に読んだ。
 この書院で案内してくれた人が戦前、京都に住んでいた。閉館時間なので、一緒にバスで大邱に帰った。バスの中で「ボクは鉄道員なので、大邱の地下鉄火災事故現場を見たい」と言ったら、案内を買って出てくれた。


大邱地下鉄火災事故の12日後の被害者の集会。荒縄の鉢巻で座り込む。

 中央路駅の構内で二月一八日に起きた地下鉄の火災事故の現場は、改札までは、誰でも入れるようになっていた。すすで汚れた駅構内は、多数の市民が弔問に来ていた。立ち入り禁止には、なっていない。被害者の家族もいる。看板は熱で融けているし、投光器であかりを確保している。尋ね人の貼り紙がところ狭しと張ってある。無言で見て歩く。
 広場では、現代やロッテなどの大企業が、テント張りで炊き出しをしている。食事の供出は「大企業の責任」との自覚なのか、一日に千食とか二千食を社員が提供している。地下一階にいる被災者の家族や関係者が、順番に食事をしている。「ボクらも関係者」という勝手な解釈をして食事をしてきた。後に行った寺でも昼食を食べた。食事を共にすることは、共同体を意識させた。
 いつの間にか、ボクは事故対策本部長と話をしていた。四〇歳代の人でした。「日本から来た鉄道員だ」と言うと、「外国から来た現場の鉄道員は初めてなので、話を聞きたい。ちょっと話してくれ」と、本部長が録音の許可を求めた。「あとで、翻訳させるので日本語でOK」。ボクは事故の感想を話しはじめたら、周りにいた報道陣がビデオを撮りだした。対策本部の柔軟な対応が、非常に印象的だったですね。終了後、案内人を一杯飲みに誘って、お礼としました。彼は「あした新聞に出るかもしれない」と言った。
 翌日には、海印寺(ヘインサ)で「高麗八万大蔵経の版木」を見た帰りに、現場の近くで「地下鉄事故の慰霊集会」に参加。道路の真中に舞台を設営。被災者の家族たちが、荒縄で鉢巻をして道路に座り込んでいる。付近ではパネルで写真が表示されている。彼らは表現が豊かで、怒り方を知っている感じだった。
 次の日は、桐華寺(トンファサ)に行く。雪が舞っていた。参拝者に供されている無料の昼食を戴いてきた。「統一祈願の大仏」に、ボクも統一を祈った。東大邱駅は、折り返し運転をしている地下鉄の終端。駅員に事故と運転の状況の説明を受ける。あとは一人で地下鉄を観察する。車内の壁を、指で押したらペラペラ。他にも「ここまでやるか」と不安を感じるほどの徹底的な費用削減をしていて、危険な感じ。火災とも関係があるかもしれない。その後、鉄道で釜山へ移動した。
「草梁倭館跡」発見
 釜山では、外にある舎利塔を、本堂から障子越しに拝む通度寺(トンドサ)を見たり、梵魚寺(ポモサ)にも行った。中心街からはかなり離れた山中にある古刹です。いくつか日本の寺との違いを感じた。「阿吽像」などの山門の守護像が四天王で、その一体が弦楽器の琵琶を抱えていること。弦は動物の毛から造ると聞いている。また、寺までの道幅は、馬車が行き違える幅があること。たぶん「騎馬民族」なのだろう。お寺の鐘は低い位置にあって、撞木はブランコになる、ひざの位置だったこと。などです。仏教は、朝鮮半島から伝わったと思っていたが、伝わらなかったものが、きっとあるのだろうと興味が湧いた。


琵琶を抱える山門の四天王は騎馬民族の証。 朝鮮海峡は渡らなかったの?

 船の出帆時間を気にしながら龍頭山(ヨンドゥサン)公園に行く。李舜臣の像が日本を睨んでいる。案内板に「草梁(そうりょう)倭館」の跡だと書かれている。これは江戸時代の対馬藩の大使館にあたる。はじめて釜山に着いたときから探していたのです。地図には、草梁=(チョリャン)の地名はあるが、見当もつかず、聞いてもわからなかった。
 倭館跡が植民地時代には、神社(朝鮮神宮か)だったと知ると、複雑な心境になる。ゆっくり見たいのに、こんなときには時間切れ。でも場所が判ったのは収穫です。
関釜連絡船で「念願の帰国」
 釜山港から関釜連絡船「はまゆう」で帰国の途につく。深夜、寒い甲板に出て対馬の灯台を見た。釜山の夜景もはるかに見える。一八年前に見た朝鮮海峡を今、船で渡っている。朝鮮海峡は相当なうねりがあり、対馬を過ぎると静まった。内海になった感じだ。朝鮮海峡が国境線になったことに納得する。ここは昼間に移動したかった。釜山の旅行社に寄ったら、釜山発の対馬行きの船があることがわかった。釜山経由で対馬行きを、やってみようか。そう思いながら「念願の帰国」を果した。
 六日は、下関駅を九時三二分に出る鈍行で、六〇〇キロを四回乗りかえて、九時間かけて、ようやく京都に着いた。六月にソウルに着いた頃は、三八度線を越えて陸伝いで帰国できるなど、思いもよらなかったが、やってみると、できてしまった。しかし、平壌から都羅山までは、鉄道ではつながっていない。「朝鮮半島の統一」が成ったときに、「実行すべき、重要な宿題」にしました。
 『朝鮮半島の統一』が、ボクの目的になりました。
 次回は、旅に出るための環境整備について、書いてみたいと思います。
       (つづく)
杉 勝利(すぎ かつとし) 略歴と旅行の概要
〈プロフィール〉
●勤続39年の鉄道員。
年に一度は二週間の旅行を30年以上継続中。
国内・国外ともに、一人旅が原則。
●国内は、利尻、礼文、根室、小笠原、生月、対馬、座間味、西表、与那国、波照間を含む、1道1都2府43県に足跡。
●訪問国は、フィリピン、オーストラリア、イギリス、フランス、ギリシア、オランダ、デンマーク、スイス、イタリア、エジプト、ドイツ、トルコ、アイルランド、ポルトガルなど、40ヶ国を越える。
〈略歴〉
1945年  8月生まれ。
1964年 18歳 就職
1965年 20歳 広島への初旅行
1970年 25歳 長崎への初旅行
1975年 30歳 沖縄への初旅行
1984年 39歳 東海道を歩く
1987年 42歳 フィリピン(初出国)
1991年までは、フィリピンに7回旅行
1992年からは、諸国歴訪
2002年 56歳 3月からほぼ毎月旅行
2002年 57歳 10月 英検5級合格
〈ここ1年の旅行〉
(1) 東欧 〈ベルリン〜モスクワ〉2002年 3月 8日〜2002年 3月17日 10日間
(2) シベリア鉄道の全線     2002年 6月11日〜2002年 6月25日 15日間
(3) 高麗古墳〈平壌〜開城〉   2002年 7月20日〜2002年 7月24日 5日間
(4) 満鉄  〈ハルビン〜大連〉 2002年 8月20日〜2002年 8月28日  9日間
(5) 燕京  〈大連〜天津〉   2002年 9月17日〜2002年 9月25日  9日間
(6) 北朝鮮 〈新義州〜板門店〉 2002年11月 7日〜2002年11月17日 11日間
(7) 慶州  〈釜山〜慶州〉   2002年12月30日〜2003年 1月 3日  5日間
(8) 南朝鮮 〈ソウル〜釜山〉  2003年 2月26日〜2003年 3月 6日  9日間
(9) 台湾  〈基隆〜高尾〉   2003年 4月 1日〜2003年 4月 9日  9日間
(10) 全球旅行〈世界一周〉    2003年 5月21日〜2003年 6月11日 22日間