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シリーズ「「安全な社会」って何だろう〜最近の刑事立法を考える」
第2回 これ以上、閉じ込めないで!「心神喪失者等医療観察法」の問題点
「安全な社会」という言葉をたびたび新聞などで目にするようになりました。「安全」が強調されればされるほど、とらえどころのない「不安」がふくらんでいきます。次は自分が被害者になるかもしれない、家族が、友人が、・・・。そうした「不安」から抜け出すために、「危険」なもの、「異質」なものを排除することで安心しようとする傾向が強くなっているような気がします。そのやり玉に真っ先に挙げられているのが、「精神障害者」とレッテルを貼られた人々です。
 しかし、「不安」というものは、根拠がなければない分だけ、煽られればどこまでもエスカレートします。排除しても、排除しても、不安は残るでしょう。しかも、排除される側にとっての「安全」はどうなるのでしょうか。
 シリーズの第2回は、「心神喪失者等医療観察法」を採り上げます。
 この法律は、二〇〇一年六月の池田小学校事件を直接のきっかけとして、翌二〇〇二年三月に国会に提出されました。精神障害者当事者や家族、精神科医療従事者、福祉関係者、法律家、さまざまな市民が、立場を越えて廃案という一点で共闘して反対運動に取り組んできましたが、強行採決を経て二〇〇三年七月に成立してしまいました。条文上は二年以内に施行されることになっています。
 その内容は、殺人、放火、強姦・強制わいせつ、強盗、傷害にあたる行為を行い、心神喪失又は心神耗弱を理由として不起訴処分、無罪、執行猶予付判決などを受けて受刑しない精神障害者に対して、再犯防止のために、裁判官一人と精神科医一人の二人で構成される合議体が、「同様の行為を行うことなく、社会に復帰することを促進するため、この法律による医療を受けさせる必要があると認めるとき」に特別施設への強制入通院を決定するという全く新しい制度を創設するものです。このうち通院期間は最大五年とされていますが、入院期間には上限すらありません。
 心神喪失というのは、精神障害のために、善悪を判断する能力や、自分の行動をコントロールする能力が失われている状態であり、心神耗弱というのは、それらの能力が著しく弱まっている状態です。心神喪失であれば無罪、心神耗弱であれば刑が減軽されます。生じた結果からすれば不当に見えるかもしれませんが、同じ結果が生じていても、わざとやったのか(故意)、誤ってやってしまったのか(過失)によって責任の重さは違うと考えるのが自然であるように、症状に支配されてどうすることもできなかった人に、その責任を負わせることはできないとされているのです。ただし、精神障害があれば責任能力がないということではなく、精神障害者が事件を起こした場合にも、妄想に支配された状態で起こすこともあれば、障害がない人と同じように、欲望や恨み、葛藤などから事件を起こすこともあります。後者の場合には責任能力は否定されず、実際に刑務所で服役している精神障害者もたくさんいます。ところが、この法律は、不起訴や無罪とされた人を拘禁することによって、刑罰に代わる制裁を科すものなのです。しかも、刑事裁判と同じ程度の適正手続すら明確には保障されていません。
 この法律では、「同様の行為を行うこと」すなわち再犯の予測という将来の危険性判断が求められることになります。しかし、誰についても、再犯を予測することなどできません。将来の危険性は、私にも、あなたにも、誰にでもあります。不確実な将来の危険性で、人を拘禁することは間違っています。
 法律ができたからといって、不可能が可能になるわけではありません。ティモシー・ハーディングさん(スイスの精神科医、拷問等禁止ヨーロッパ委員会専門家委員)は、来日した際に、再犯予測は不可能だと繰り返し強調されていました。スイスには保安処分があり、精神科医は実際に再犯予測をしています。しかし、「われわれ精神科医には再犯予測はできない。できるのは、普通の人が『危ない』と思うのと同じ程度のことでしかない。でも、『○○高校を出て、○○大学を出て、研修を積んで、○年の経歴を持っているのに』と言われると『わからない』とは言えないんだ」と言うのです。「できる」から「やっている」のではないのです。しかし、この法律の成立によって、日本でも、リスクマネジメントが当然視され、将来の危険性予測があたりまえとされていくかもしれません。「できない」ことは、どこまで行っても「できない」のだと言い続けていくことが必要です。
 予知能力者が将来の犯罪を確実に予知し、事件を起こすはずの人を逮捕・拘禁する近未来を描いた映画「マイノリティ・リポート」では、予知された犯罪が最後の最後に本人が思い止まることによって回避され、予知システムは否定されました。犯罪など起きない方が良いに決まっています。しかし、いつの時代にも人間社会には犯罪があります。交通事故で亡くなる人は、一時期よりは減ったものの、年間八〇〇〇人以上にのぼります。南海大地震が起きれば、多くの被害者が出るでしょう。意識するしないにかかわらず、私たちはリスクと背中合わせに生きているのです。未来は、犯罪の危険性も、変わりうる可能性も、ともに秘めているのです。将来の危険性で人を拘禁する社会は、人間の可能性を信じない社会です。しかし、人間の可能性を否定する社会は、やがて窒息するしかありません。
 この法律では、「治療」をするのだから、間違って拘禁しても良いのだ、良いことをしてやっているのだ、という考えが読みとれます。しかし、そもそも、「障害」は、個人の医学的状態からくるのではなく、社会の側に受け容れる準備ができていないから、「障害」になるのです。医療や福祉は、準備を怠っている社会の都合に本人を合わさせるためのものではなく、本人の自己選択・自己決定に基づいて、本人のために行われるべきものです。本人の病ゆえの苦しさや生きづらさを解消してくれるものであれば、自ら進んで治療を受けるでしょう。しかし、社会の安全のために、強制的に行われる「治療」は、かえって医療に対する不信感や恐怖を植え付け、自ら安心して治療を受けることをしにくくするのではないでしょうか。
 日本の精神科ベッド数三五万床は、実数でも人口比でも、世界一の異常な多さです。しかも、入院者の約半分が二四時間外から鍵のかけられた閉鎖病棟にいます。自らの意思で入院しているはずの任意入院者でさえ、二三万人中一〇万人が閉鎖病棟にいるのです。そして、五年以上入院している人が一五万人、二〇年以上入院している人が五万人と言われます。医療上は入院の必要がないのに社会の側の受け入れ態勢ができていないために退院できない「社会的入院」とされる人々が、厚生労働省見解でも七万二千人、実際には一〇万人とも、それ以上とも言われます。これは、精神科病院については、医師数は他科の三分の一、看護職員数は二分の一でよいという医療法特例が未だに存在しており、「少ない人手で閉じこめさえすれば儲かる」ようになっていることも一因です。現在でも、これだけ多くの精神障害者が閉じこめられているのです。その上に、今以上に精神障害者を閉じこめようとするこの法律の審判と施設を監視していかなければなりません。
 長期にわたる入院は、社会の中で生きる居場所やつながりや意欲までも奪ってしまいます。ハンセン病訴訟熊本地裁判決が、「ある者は学業の中断を余儀なくされ、ある者は職を失い、あるいは思い描いていた職業に就く機会を奪われ、ある者は結婚し、家庭を築き子供を産み育てる機会を失い、あるいは家族とのふれあいの中で人生を送ることを著しく制限される。・・・人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである。」と断罪したのと同じことが生じているのです。しかも、ある人々を社会から強制的に隔離することは、「危険だから隔離されるのだ」という差別偏見を助長することになります。らい予防法がそうでした。同じ状況が、精神障害者に対して、これまで以上に押しつけられようとしているのです。
 誰かの「安全」のために誰かが排除され隔離される社会、レッテルを貼られて排除されないために息を潜めて「障害」を隠し続けなければならない社会は、本当に「安全」なのでしょうか。危険性も可能性も不便さも異質なものも包み込む社会、誰も排除しない社会こそが、本当に安心できる「安全な社会」ではないのでしょうか。「便利」で「快適」な生活に慣れた身には、それは難しいことかもしれません。でも、何が「安全」なのか、もう一度、立ち止まって考えてみませんか?
大杉光子(おおすぎ みつこ)
 一九六九年生。二〇〇〇年四月、京都弁護士会登録。在日外国人「障害者」年金訴訟弁護団員。京都弁護士会人権擁護委員会副委員長、同「触法精神障害者」問題プロジェクトチーム副委員長など。この二年ほどは心神喪失者医療観察法案の反対運動にかかわってきた。刑事・少年事件、外国人・精神障害者の人権などの課題に取り組んでいる。