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連載「鉄道員のゆうゆう「世界」ひとり旅」
連載・その3「年次有給休暇の取得術」


ウラジオストックで保存されていた汽車

種も 仕掛けも あります
 今回は、ボクが年次有給休暇(以後、年休)を、どのように取っているかを書いてみようと思います。
 ボクは、二〇〇四年二月に「勤続四〇年」を迎えました。休暇を無理して取っていたのでは長続きしません。法律や規則で許されている範囲内で、旅をしているにすぎませんから、年休を取ることは誰にでも可能なことだと思っています。それでも「忍術」でも使っているかのような印象を与えているのは、薄々感じています。
 水鳥は、水面を何の苦労もなく、ゆったりと進んでいるように見えても、水掻きのついた足で、懸命に水を掻いているのかもしれません。さながらバレエの『白鳥の湖』のプリマが、トゥシューズで爪先立ち、細やかに動かし続けることで、上半身のしなやかで滑らかな動きを支えているようなものです。一朝一夕にできることではありません。
 ボクの《プロフィール》を見てください。そこに、一年間の旅行日程が出ています。一〇回の旅で、通算一〇〇日を越えます。ボクにすれば「これは結果として、こんなに旅ができてしまった」ということです。行きたいと思ったところを、行きたいと思った時に実行した「結果」です。多分、一番驚いているのは、実行した本人でしょう。
 手品師は「種も仕掛けもありません」と言いながら、実は種も仕掛けもあることは、見物人だって充分承知のうえで、だまされることを楽しみます。
 今回は、ボクが、どのようにして「ゆうゆう旅」をしているのか、種も仕掛けもある、日本のサラリーマン諸氏への『 年休取得術 』の公開です。
旅の折り返し点は 空港到着
 旅の行き先は、思いつきです。「スエズ運河を見たいので、カイロの往復」とか「正月の休暇は、済州空港着で釜山空港発の切符を所望」など、思いつけば即座に、なじみの旅行社に電話し、出発日と日数を伝えて、往復の航空券を入手します。旅行社は、これで基本的には終了。あとは微調整をします。時によっては、概略コースを作ってもらいます。これは実際の旅行の参考にするためで、日数が収まるかどうか、旅のネックはどこかを知ることが主目的です。
 一方、準備の出来具合にかかわらず、出発日の一月前(解雇の事前通告を援用)に「一週間ほど旅行をしたいので、チケットの手配をしてもよいか」と、職場の上司に通告して「OK」を取ります。行き先などの詳細は言いません。実際は、この時点で入金も済んでいることが多い。「計画が決まれば、改めて年休の申請をします」と言っておきます。そして、出発の一〇日前に年休の申請書を出します。その時に別表として「旅行日程表」を付けます。これには、日付と、その日が公休日か、年休かという勤務の扱い方、航空機の発着時間、それに家族、職場、旅行社の連絡先を書きます。これは、それぞれに渡します。航空機の発着時間以外は白紙の状態でも、官僚化した組織での「日程表」の提出は、意外に効果があるようです。このように、全エネルギーを『年休取得』にかけて、言い出すタイミングをはかります。『必ず「OK」が出る雰囲気』を作り出して、その中で、さりげなく実行します。精神的には、ここが一番きつい。
 このようにして、出発のために関西空港に着いた時には、こうつぶやきます。「やっと、旅に出られる。折り返し点通過 ! 」。
約束が違うではないか
 年休を取るのは今でも大変です。就職した頃は知識も乏しく、いっそう困難でした。その状況を、就職前後にボクが感じたことを通して、述べておこうと思います。
 一九六〇年頃の高校への進学率は、五三%(現在の大学進学率は四一%)と記憶しています。中学校を卒業して就職する人は「金の卵」といわれ、安保闘争のあとの池田内閣は「所得倍増計画」を推進し、日本社会は高度経済成長に突入します。
 中学校の授業で印象が深かったのは、職業科という選択科目でした。教員は「おまえたちの半数は、卒業すると就職する。正規に授業を受けるチャンスは二度とないかもしれないので、会社の経理と労働法の概略を話しておく。本当に必要になったら、改めて勉強してくれ」と言って、たった二時間の授業時間を盗むようにして、手形や貸借対照表、労働基準法(以後、労基法)の講義をしてくれた。この授業は、今のボクにとっても役に立っています。
 高校に入学した日、担任は「君たちが中学校で机を並べていた友人の半数は、今、生活の糧を得るために、額に汗して働いている。それを忘れない限り何をしてもよい。高校生活を楽しんでくれ」と言った。ボクは、Noblesseoblige( ノブレスオブリージ・高い身分に伴う精神的義務)だと思った。もとは西洋の貴族の根源にある発想で、「貴族など、高い身分で恩恵を受ける者は、危機に際しては、率先して対処する」ような精神的義務のことなのです。『氷川清話』で、勝海舟が幕閣を批判して「およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧」といったのを思い出します。
 最近のニュースを見ていると、日本国首相は、自衛隊のイラク派遣について、議論を避けて、説明責任すら果していない。英国のブレア首相は、ブーイング中でも真摯に説得しようとしている。意見の相違は置くとして、その態度の違いに驚きます。「怜悧」には「ノブレスオブリージ」を含んでいるようです。
「高校を受験して合格したことは、選抜され、特権を得たのだから、社会に対して責任が生じた」とボクは考えた。その責任を意識する限り「何をしてもよい」のです。高校入学程度でこんな風に考えるのは相当な気負いですが、こういう授業や言葉が、実感で伝わった時代だったのだろう。この言葉はボクの指針になっています。
 高校を卒業して、ボクは鉄道員になった。はじめは環境に慣れるのに戸惑いましたが、初任給は一二万八千円。自分で稼いだお金が使えるようになり、給料日の後の休日に、古本屋で本をたくさん買うのが楽しみになり、しばらくすると、仕事の鉄道がサービス業なので、「サービスとはなんだろうか」と考えはじめました。最高のサービスをしていそうな、飛行機と、ホテル(当時はネクタイ着用が必須条件だった)で、「客としてサービスを受けてみたい」と考えたのです。「よし、やってみよう」と、年休を取ろうとしたのですが、それが拒否されたのです。
「約束が違うではないか」。中学生のときに学んだ労基法と、現実の違いに唖然としました。不満です。「どういうことや」。
 この時、事情を説明して旅行を願い出れば、あるいはOKだったかもしれません。仕事の一環でもありますから。しかし旅はプライベートなものですし、「自立を目ざす」ことも目的だったので、「自分の年休を使うのに、お願いして許可を得る」のは、もってのほかだと思いました。
 苦心してはじめて乗った飛行機は、東京・大阪間を一時間余りで六八〇〇円。ホテルは九〇〇〇円だった。同時にはできずに二回に分けて実行したのですが、初任給と比較してください。大枚はたいた甲斐はあった。
「休日返上は美徳」「年休を捨てるのは会社への貢献」という風潮は、今も昔も変わらない。しかし労働者の本心は休みたいのです。だからボクに対して、ねたみから嫌がらせをするのだろうと、推測しています。
 ボクは「年休の取得」を手始めに、自分の労働環境のことを考えました。そして歴史や法律の自習を開始したのです。
ボクが生まれた頃に 戦争があった
 人はみな、自分の経験を「ものさし」にして、ものごとを推しはかるのだと思います。そこでボクの「ものさし」をいくつか紹介します。
 ボクは日中戦争の敗戦の月に生まれました。だから「戦後」を生きてきたといえます。子ども心にも、敗戦が歴史的な転換点であったことは判ります。だから敗戦と戦争に関係があることには、注目してきました。
 朝鮮戦争は、ボクの一番古い記憶のひとつです。この「朝鮮戦争特需」で日本経済が立ち直ったのを知ったのは、ずっと後のことです。
 ボクの住まいの近くには、旧日本陸軍の第一六師団の司令部があって、その跡は女学院になりましたが、「軍道」や「師団街道」という地名は残っています。連隊の跡は占領軍の米軍がいました。この第一六師団が「南京攻略に参戦」していたことを知ったのは、後年読んだ『天皇の陰謀』(バーガミニ著)によってです。
 ボクが通った新制中学(当時はまだ、この表現が残っていた)は、旧野砲連隊の跡で、その頃に、「蒋介石は『恨みを以って報いるに、徳を以ってなす』と、日本の軍閥を憎み、日本人をゆるした」という、大人の会話を覚えています。
 蒋介石は歴史を踏まえていました。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍」んだのは、日本ではなくて、中国です。第一次世界大戦のドイツに対する天文学的賠償金が、第二次世界大戦を誘発したことや、報復は報復を生むことなどを考慮して、日本への賠償を放棄した。賠償の請求があれば、日本は「経済大国」には、なり得なかったでしょう。
 フランキー堺が演じた『私は貝になりたい』というテレビを見ました。極東軍事裁判は、戦争指導者を裁いたA級戦犯のほかにBC級戦犯(下級兵士でも捕虜虐待などで極刑の人も多数ある)も裁いた。その法理は「人道に対する罪」で、「たとえ上官の命令といえども、人道に反することをしてはならない」ということでした。何度も反芻するうちに深く心に刻まれました。

国体ハ 護持サレタゾ
朕ハ タラフク食ッテルゾ
ナンジ臣民 飢エテ死ネ

 四六年の「食料メーデー」のプラカードです。敗戦直後の世相を反映しています。国体の護持=「天皇制の存続」と引き換えに、そして、武力による威嚇が引き起こす悲劇を、再び繰り返さない誓いとして憲法九条が生まれたのだと、ボクは思います。「自衛隊」が憲法違反なのは、中学生が読めばわかります。
 かつて日本軍は「満蒙国境は、日本の生命線」「暴戻(ぼうれい・人道にはずれている)なる中国を庸懲(ようちょう・こらしめる)する」といって軍隊を派遣して戦争をしました。いま、「人道援助」「テロ攻撃に屈しない」といって、「いいがかりで始めた米国の侵略戦争の後始末」のために、占領米軍の傘下のイラクに「自衛隊」を派遣しました。国会では、議論がないがしろにされ、なしくずしで、ことが運ばれていきます。何も歴史から学ばないから、同じ過ちを繰り返すのだと暗澹たる気持ちになります。
赤信号
 ここで、ボクの法律解釈法を、いくつかの挿話でやってみようと思います。
「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」という、ざれ歌があります。あなたは、どうしますか。
 ボクはこうです。横断歩道で、青信号なら普通に渡ります。黄色の信号の時は気をつけて渡ります。赤信号の時は、安全が確認できれば渡ります。安全が確認できない時は渡りませんが、ボクは「渡る」のです。どこでもこの原則は変わりません。渡るのは横断歩道だけではありませんが、自動車専用道路ではやりません。ボクは探検しますが、冒険はしないことにしています。
 パリの凱旋門は、ロータリーになっていて、八車線だったと思いますが、凱旋門を直視して車も見ずに堂々と渡りましたが、車の方が避けてくれます。
 ベルリンでは、ブランデンブルグ門のあるウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)通りの、車道の真ん中を、動物園駅あたりから数キロを歩きました。はじめは歩道を歩いていたのですが、「ボクの歴史の観察者の立場から、この通りこそは、真ん中を歩く当然の権利がある。歩かねばならない」と手前勝手に解釈し、独りごちて歩きました。戦勝記念碑はちょっと避けましたが、大通りをブランデンブルグ門を越えて歩き通しました。まったく問題はありません。共に九四年のことです。
 京都の四条通りも同じように渡りますが問題はありません。しかし、たまに警察官と言い合いになります。警官「あぶないです」。ボク「あぶなかったら、車を止めなさい」。警官「お互いですから、歩行者も規則を守って」。ボク「お互いなら、今言ったことを車に言いなさい。お互いと言いながら、歩行者にしか言わない。それはお互いではない」。警官「運転手は免許証を持っていますから」。ボク「あほ。歩行者は道を歩くのに免許証はいらない。そもそも、人の歩いていた道に、後釜で割り込んできたのが車であって、車は本来、道を通ってはならないのだ。『免許証』を持って、安全を確保できる運転手だけが通行可能なのだ。『何を「免」じられ、どう「許」されているのか』を、伝えるのは、あなたの仕事だ」。警官「そんなこと言わずに規則に従いなさい」。ボク「もう渡った後や」。ざっとこんな会話になります。
「スズメの子 そこのけ そこのけ お馬が通る」は、一茶の句です。江戸時代から、力あるものが、弱いものを蹴散らす風習は変らないようです。車が信号無視して事故になった時には、歩行者は正当性は主張できますが、怪我は自分持ちです。そうなのに「お互い」などという「平等を装う」言葉で説得しようとします。何という不合理。
 もちろん、ボクは適当に矛を納めますので、同感の各位は、自己責任でやってください。ボクは一切関知しないので、そのつもりで。
デモ行進
 ボクはデモ行進が好きです。社会の動きに異議がある時は、声高く主張しましょう。デモ行進に参加したときは、ボクは可能な限り、車線いっぱいを歩きます。警察官とは、よくトラブルになります。警官「危険なので、下がりなさい」。ボク「危険なら車を止めなさい。あなたは、そのために警備しているのです」。警官「車の通行の邪魔になるので、下がって」。ボク「邪魔は承知のうえです。車の通行のために、一車線は譲っているのだ。許可条件を読みなさい」。意見を表明する権利と、通行の権利のせめぎ合いで、一車線は「デモ隊が譲っている」のですから、それ以上の規制は権利の侵害です。平穏であっても、迷惑をかけることは承知で「もの申す」行動なのです。直接迷惑を受ける運転手の不満は聞こうと思います。その会話から、新しい局面が出てくるとボクは考えています。
 二〇〇四年一月に韓国の光州へ旅をしたとき、一九八〇年の光州事件のデモコースを、感慨深く歩きました。迷惑を蒙っていたタクシーが一転、デモに賛同して汽笛を鳴らしてタクシーデモになった時、事態が深化したことを知りました。
 デモ隊が、理屈に合わない遠慮をしている限り、新しい局面は開けないように思います。デモでボクが気になるのは、横断幕がよじれていて、通行人が読めなくても平気で気づかないこと。これでは一人よがりです。やる以上は、意味を伝える努力はしよう。
 九四年、英国で国鉄のストに出会いました。テレビはトップニュースでしたが、数分で次のニュースに移ります。駅に行くと、駅員は英語が解らないボクに、一時間も説明しました。それが「英国国鉄の民営化反対」であったことを知ったのは、最近の雑誌記事によってです。「民営化によって鉄道が危険になった」ことを報じたものです。その記事によって、ストの意味がわかったのです。旅は変更を余儀なくされました。しかし鉄道員としては、ストの現場に立ち会っていたのだと、一〇年後の今、感動しています。「全一日の休業は、社会の不義を撃つものぞ」という歌もありました。
 ボクの考え方には、きっと異論もあると思います。ここは提起のみ。ここもボクは適当に日和りますので、ご注意を。
こんなことが わかった
 さて、労働の環境については、少しずつ、こんなことがわかってきました。
(一) 八時間労働制は、米国・シカゴでの事件が発祥で、今、メーデーに痕跡を残していて、労働者が勝ち取ったもの。ILO(国際労働機構)の第一号条約になっているのに、日本はILOには加盟していながら、この一号条約を批准していない。 →ボク「大きな忘れものです。すぐに批准せよ ! 」
(二) 年休は、世界恐慌の後のフランスで、社会党が政権を奪取し、ワークシェアリングで失業者を減らして、戦争を回避しようとした。 →ボク「年休取得は、反戦運動でもあるのだ ! 」
(三) 年休は一度に与えるのが原則で、フランスでは、半数を一度に与えない場合は、会社はペナルティーとして、一労働週を労働者に与えることになっている。 →ボク「だから、バカンスが可能になる ! 」
(四) 法は、権力を行使する者を拘束するためにある。 →ボク「年休を捨てることは、労働者の勝手ではない。取らないと『社長が処罰』される ! 」
(五) 経済学者ケインズが工場長をした時に、労働時間をへらして、工場全体の生産性を上げた。 →ボク「休暇を取って、能率を上げよう ! 」
(六) 戦後の日本の労働運動は、労働者の権利を「換金する運動」だった。換金してはならないものまで。 →ボク「心まで売り渡し、そしてカイシャの奴隷になった ! 」
(七) 「 自由及び権利は、国民の『不断の努力』によって、保持 」する義務があることを、日本国憲法一二条で知った。 →ボク「なんとまあ、文学的な日本国憲法 ! 」
 ボクにはこんな風に、読めてきた。ひとりの闘いは理屈が頼りです。こうなれば、できることを、できるところから、できるところまで、実行してみよう。
実情をよく見て 準備を開始
 鉄道は、日曜日や祝日も動いているから、盆や正月は、休暇どころか返って忙しい。鉄道業という特殊事情で、勤務の不規則は理解はできる。大企業だから規則は法律に則っている。かつ労働組合もある。
 しかし、改めて周りをみると、年休は、不思議にも一〇〇%消化に近い。しかしそれは「取っている」のではなく「取らされている」のです。主体性がないと、休んだ気にはなりません。この際、戦略を練って、積極的に取ってみようと考えたのです。
 まずやったことは、勤務を「総点検」すること。年休を取ろうとする時、残業を期待していたのでは先に進めない。
「儲かるのに、なぜ残業をしないのか」と言われたのをきっかけに、残業はやめた。もともと、低賃金を残業で補うことは、さもしくて抵抗があった。
「廃休(はいきゅう・配給の意味もある)」と呼ばれる休日出勤は、同様の理由から、やめた。
「国民の祝日」は、割増賃金の休日出勤の扱いとなるが、必ず「代休」を取る。ボクは、これを、年休の代用に使うことにした。
 残業や休日出勤は、残業代を期待している同僚がいるので、いつでも代って引き受けてくれる。
 ボクの収入は、これで「残業なしの定額収入」になった。その収入の中で支出を工夫することにしました。
前例がなければ 作ればよい
 ボクの職場では、労働基準法に則って労働協約が結ばれ、就業規則があります。それぞれ若干異なっているのですが、ここでは労基法に沿って話をすすめます。

 労基法を要約すると、
 年休は、年間所定の労働日数の八割以上出勤した者に、二〇日の年休を与える。
 年休を請求した時季にとることが、業務の正常な運営に支障のある場合は、他の時季と変更することができる。
 年休の年度は九月一日に始まり、有効期間は二年間。

 ここでボクは、「時季」という文字に着目しました。それはほとんど勘みたいなもので、ここに謎を解く鍵が隠されていたのです。普通は「時期」を使います。「誤植なのだろうか」と思ったのですが、誤植ではないのはすぐにわかります。
 そこで「法律は法学部」と、大学の法学部を訪ねて聞いてみた。すると「シーズン」という意味であることが判明しました。
 たとえば、一四日の年休を請求した時季が、会社の決算期や、定期的な大売り出しなどに重なった時には、一四日の年休日数はそのままで、季節をずらして「与える」意味なのです。日数を減らすことは文面にはありません。「時季の変更」なのです。この文字に託された「歴史的意味合い」を納得した一瞬です。わかった、ウン。
 年休は「会社の恩恵」ではありません。前年度に八割以上を出勤した時点で、「権利が発生」するもので、業務に支障がない限り許可しなければならない。それに休養なしで働かせることは「人道に反する罪」だと信じて疑いません。
 ボクがやろうとしているのは「可能性を探る」のであって、「できないことの言い訳を探す」ためではありません。しかし実際に年休を取ろうとすると「残業をしていないので出せない」とか、許可した後で「残業をしっかりやれよ」と言われる。しかし本来は、残業とは、まったく関係がありません。
「こんな年休は、前例がない」と言われた。「前例がなければ、作ればよい」と思いつき、計画を実施することにしたのですが、一方、同僚の権利にも、配慮する必要があると考えました。
(一) 年休は一〇〇%完全に消化する。取るからには「年休を活用」する。
(二) 年度初頭には四〇個を確保する。繰越しを容認する方が年休は取りやすくなる。
(三) 年休取得の理由は、比較的に通りがよい「旅行」にした。
(四) 実績を積み重ねることに重点をおき、交渉では「権利の主張」はしない。理屈をいえば角が立つ。理屈をいう相手は警察官に限ることにした。
(五) 五日連続して年休を取ると、前後の休日を合わせて九日の旅が可能になる。これが一番効果的な「年休の取り方」です。
(六) 年休の年度末は八月末日だが、駆け込み取得が予想され、夏休みなので、家族旅行を想定して、ボクは遠慮する。
(七) 一年に一度は定例の旅行をする。旅行月を六月に決めれば「前例」になる。
(八) 五日から開始して、一年に一日づつ追加し、上限は二労働週に規制することにした。前後の休日と合わせると一六日の休暇になる。年休一〇個は半数になる。フランスの労働法の援用で「社長が処罰されないため」の、ボクの温情です。何と社長思いなことか! また、職場から浮き上がらないための配慮でもある。
(九) 同僚が年休取得に困っている時は、休日出勤をいとわない。
(一〇) 許可を出す上司には、「連続休暇も取って見なければ、感覚がわからないだろう」と考えて、「九日間の連続休暇を取った時は、五〇〇ドルの賞金を出す」と提案した。実際に「病欠で休んだ」ので、ボクには想定外だったが、賞金を出した。
(一一) 年休は、連続休暇だけには使わず、たまには「ずる休み」もする。同僚の取得理由と同様に、年休の一部は雑用にも使う。実は、この原稿も「仕事に疲れた」ことにしてやっています。ハイ。
(一二) 「みんなが同じことをした時は、どうなる」と言われた時(実際に言われた)には、「ひとりでします」といえる程度には、同僚の仕事を理解しておく。
作戦開始
 熟慮の末、第一回目は、まん中に休日を挟んだ五日間にしました。ボクにとっては効率が悪い。しかし、はじめの三年間の日数は、前年実績を常にプラス一日にして、五日、六日、七日としました。これは「上司が、長期休暇に慣れる」ことを考慮した戦略です。次は八日ですが、この時は、休日を前後に入れて、効率を高めました。
「休暇が長過ぎる」と言われたことがあります。その時は「去年と同じです(実は一日多い)。何なら調べてください」と答えたら「OK」です。作戦成功 !
 一四日の休暇に差しかかった時には、「小笠原・父島行き」を設定しました。週一便で、片道四〇時間(今は二八時間)の船便しかないので、どうしても一四日の休暇が必要なのです。案の定「長過ぎる。飛行機か何か、ないのか」。ボク「飛行機はあります。チャーターしますので料金は持ってくださいね」と言って、メモしておいた板付空港の航空会社に電話し始めると「OK」になりました。OKが出ない時には「いつなら取れますか」と「変更日を予約するカード」を持っていた。労基法のとおりに「年休が取れる」方向に誘導する作戦を、用意していたが、使ったことはない。
 このようにして「一年に一度は二週間の旅行」を続けて、ほぼ三〇年になります。八七年からは海外旅行になりました。
 こうして年休取得を続けているうちには、経済的に手元不如意になることがあります。続けなければ「前例」が主張しにくくなります。ある年は、どうしても旅費がなく、困りました。そこで、懸案だった「農業実習」することを思いつきました。大阪府南河内の知り合いの農家に打診すると、気前よく受け入れてくれました。朝は朝星、夜は夜星の農作業なのだが、昼には昼寝も入れて六時間、たっぷり休む。それでも体力的にはキツかった。その分、別世界が見えた。こんな経験も、ボクにとっては「立派な旅」です。
「東海道五三次」を、京都から東京まで歩いたのも、この頃です。これは区間をいくつかに分割することで実現しました。通算一七日の旅は、江戸時代のシーボルトが江戸参内の旅と同じ日数です。「彼はこの速度で歩いたのだ」と、追体験の面白さを感じたものです。道中で行き先を聞かれた時に、出発直後は「東京」と言っていたものが、途中から「ちょっと、江戸まで」と言っている自分に気づきます。経験は変化をもたらすようです。「箱根越えが難所」であったのは、ほかは宿場を二三通り越して行くから、足に合わせて宿が取れるのに、箱根峠は途中に宿がなく、一気に登り切る道程からの難所なのかと納得しました。
 定期的に続けていると、四月か五月頃になると、職場で世間話をしているうちに、上司が「近ごろ、旅行に行かないね。今度はどこに行くの」というような話題になることがあります。そんな時は、その日のうちに計画書を作成して、話を切り出した本人に提出します。自分から言い出した手前「NO」とは言えません。絶好のチャンスです。見逃すはずはありません。
年に 通算一〇〇日の旅
 年間二〇個の年休は、単独で使うと二〇日の休暇でしかありません。しかし、二〇個の年休を一度に使えば、計算上は、四労働週・三〇日の旅が可能になります。これがバカンスなのでしょう。しかし、ちょっと効率は悪いです。
 一度に五個の年休を、前後の休日と同時に使うと九日間の旅ができます。これが一番効率がよい。年休は二〇個ありますから九日×四回で、年間で通算すると三六日の旅が可能になります。
 また、年休は二年間有効で、年度をまたいだ一年に使い切ると三年分が使えますから、一〇八日の旅ができる計算になります。ですから一年に一〇〇日の旅行は、ボクにとっても一度限りですが、可能なのです。
 鉄道は年中、休みなく動いていますから、休日は公休日になります。国民の祝日は、以前は、公休出勤をしたとして割り増し賃金を受け取ることも、年休のように代休を取ることも可能でした。ボクはすべて休むことにしているので、活用すると年休の使用を減らすことができます。
 その後、年間一八個の祝日相当分を、各月に一個か二個づつ割り当てて、特別休日(特休)といわれるようになりました。この辺までは理解できます。
 次は「年休を取る時は、特休を優先して取ること」ということになった。年休の買い上げは法律で禁止されていて、特休は割増賃金が必要なことを悪用して、年休を捨てさせる魂胆です。年休を一七個も捨てる人が出てきた。
 最近には、「二人一組で連帯して仕事をして、休暇を取る時は相手の了解を得よ」ということが提起された。ダブルキャストなので、「引き継ぎ」が欠かせない作業となり、能率は極端に悪くなる。それに「休暇を取る」のにどうして同僚の許可が必要なのか、まったく理解できない。休暇を取ると「同僚の迷惑」になるからプレッシャーです。「長期休暇など、とんでもない」ということになる。確かに、これで経費節減にはなるのだろう。けれども、休暇も取らずに働いても、よい仕事ができるとは思えないし、まったく「人道に反する罪」だと感じました。
 ボクはここに至って、規則通りに、休暇を精一杯取ることにしました。もちろん、直接上司に提出して、同僚の許可は取らない。それまでは多少遠慮していたのですよ。一年に一度、多くても二度くらいに自己規制していたのに、姑息な手法に呆れたからです。
 こんな手法を平然と取る企業。転じて日本社会を見渡すと、どこでも、法律も、道理も省みない、なりふり構わぬ「腕力の行使」で、より弱いものをいじめています。
 七〇〇兆円の負債をかかえる政府は、近いうちに「インフレ政策」を取るだろうと思っています。ボクは退職後に備えて、わずかの蓄えがあります。そうなると「蓄えの価値」も暴落することになります。この蓄えは「過去の労働の対価」です。それまで値切られることになります。そうならば、価値のある今のうちに使った方がよい。これを旅の資金源に当てようと考えました。
 そうしたら、年に一〇〇日以上も旅ができてしまったのです。世界一周の旅の後にも、二〇〇三年一一月には、エジプトに一六日間、その一八日後の正月休暇には、済州島と光州市に九日間の旅に出ています。三月には九日間の旅を計画中です。年休取得と旅は、コンスタントに続けています。
 ボクが、恵まれた環境にいることは充分自覚しています。しかし「一六日も、旅をしてきた」と自慢しているボクが、旅の途上では「一六日の、短い旅です」と変化します。
 ボクは、日本の労働者が、一年に一度くらいは「九日間の連続休暇」を、あたりまえに取れるようになることを、切望しています。
次回は『中国の旅』の話です。
                 (次号に続く)
杉 勝利(すぎ かつとし) 略歴と旅行の概要
〈プロフィール〉
●勤続39年の鉄道員。
年に一度は二週間の旅行を30年以上継続中。
国内・国外ともに、一人旅が原則。
●国内は、利尻、礼文、根室、小笠原、生月、対馬、座間味、西表、与那国、波照間を含む、1道1都2府43県に足跡。
●訪問国は、フィリピン、オーストラリア、イギリス、フランス、ギリシア、オランダ、デンマーク、スイス、イタリア、エジプト、ドイツ、トルコ、アイルランド、ポルトガルなど、40ヶ国を越える。
〈略歴〉
1945年  8月生まれ。
1964年 18歳 就職
1965年 20歳 広島への初旅行
1970年 25歳 長崎への初旅行
1975年 30歳 沖縄への初旅行
1984年 39歳 東海道を歩く
1987年 42歳 フィリピン(初出国)
1991年までは、フィリピンに7回旅行
1992年からは、諸国歴訪
2002年 56歳 3月からほぼ毎月旅行
2002年 57歳 10月 英検5級合格
〈ここ1年の旅行〉
(1) 東欧 〈ベルリン〜モスクワ〉2002年 3月 8日〜2002年 3月17日 10日間
(2) シベリア鉄道の全線     2002年 6月11日〜2002年 6月25日 15日間
(3) 高麗古墳〈平壌〜開城〉   2002年 7月20日〜2002年 7月24日 5日間
(4) 満鉄  〈ハルビン〜大連〉 2002年 8月20日〜2002年 8月28日  9日間
(5) 燕京  〈大連〜天津〉   2002年 9月17日〜2002年 9月25日  9日間
(6) 北朝鮮 〈新義州〜板門店〉 2002年11月 7日〜2002年11月17日 11日間
(7) 慶州  〈釜山〜慶州〉   2002年12月30日〜2003年 1月 3日  5日間
(8) 南朝鮮 〈ソウル〜釜山〉  2003年 2月26日〜2003年 3月 6日  9日間
(9) 台湾  〈基隆〜高尾〉   2003年 4月 1日〜2003年 4月 9日  9日間
(10) 全球旅行〈世界一周〉    2003年 5月21日〜2003年 6月11日 22日間