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連載「時代の曲がり角で」
第一回 「女性と男性の平等」に思う
「女性と男性の平等を求めて」・・・・こんな言葉を訊くと、今も私の胸は高鳴る。私自身は、主婦として大半の時間を家庭で過ごし、わずかの仕事をしているだけだから、女性と男性の平等実現のためには、ほとんど役に立っていないかもしれない。それでも今日がだめでも明日は・・・・という気持ちはいつもある。女性解放が人間解放の一部である以上、それはずっと大切にしていたいテーマだ。
 実は、私は自分という存在を同心円状のものと考え、では在日朝鮮人であることと女であることとは、どちらが核心に近いのだろうかと悩んだことがある。しかし最近では、それもあまり考えなくなった。自分は同心円というより、いろいろな面をたくさん合わせ持つ多面体のような存在なのでは、と思うようになったからだ。
 日本で男女平等がさかんに言われるようになったのは七〇年代。専業主婦と有職主婦の比率が逆転して、働く主婦の方が多くなったのが八〇年代。そのころと比べると、現在の女性の社会進出には目を見張るものがある。今や女性が働くのは当たり前。社会のあらゆる方面で女性が活躍していて、女性の働きなしに現代社会は成り立たない。
 しかし、女性は解放されたのだろうか。女性と男性の平等は進んだのだろうか。一方で、子どもの自殺、犯罪、また子どもへの虐待等、子どもをめぐるさまざまな問題がクローズアップされて、家庭の力が衰弱しているのだろうかと首を傾げてしまうことも多い。「女性が強くなって社会は悪くなった」とか「ジェンダーフリー教育はいきすぎだ」などと言う人もいる。しかし、私の耳に聞こえてくるのは、むしろ「どうして女だけがこんな思いをしなければならないの」という声だ。
 最近私はよく、昔読んだフェミニズムの本にあった標語めいた言葉を思い出す。―「女は社会へ、男は家庭へ」!―確かに、男女の役割分担が固定された状況を打ち破るためにはこの二つはセット、表裏一体であったはずだ。
 でも、今振り返ってみてどうだろう。「男女共同参画社会」ということがいくらか進んできたとして、それは、ほとんど女性だけが頑張ってきた結果ではないのか。女性が社会に進出しようとあらゆる努力をしてきたのに対して、男性は家庭に関わろうとする努力をどれほどしてきただろう。多くの男性は、自分自身が何ら変わる努力をしないままに、女性に対して「働いてもいいよ、でも、家庭のことにもちゃんと責任持ってね。」という姿勢でいたのではないか。男性から何らかのサポートがあったとしても、多くは「手伝ってあげよう。」というスタンスで、「共同の責任」を負う主体としてではなかった。「共同参画社会」が進んできたほどには「共同参画家庭」は進んできてはいない。結果、多くの女性は仕事と家事との二重の負担でずいぶんしんどい思いをしている。
 もちろん、積極的に家事や教育に関わり、家庭人としても努力する男性が増えつつあることも承知している。しかし、残念なことにまだまだ少ないのが現状だ。気持ちはあっても職場の状況が許さないということも多い。だから私は、長引く不況の中、ますます厳しい労働環境で働く男性の一人一人を責めたいと思っているわけではない。
 ただ、女性も男性も含め、企業も行政も、私達皆が考え直してみる必要があると思うのだ。一方では働く女性を歓迎しながら、では社会全体が本当に、本気で、男女共同で創る社会と家庭の、新しいあり方について考えてきただろうか。パートで働く主婦の非課税枠などというものひとつを見てもわかることだが、女性の労働力を都合よく使いながら、旧来通り家庭のことは女性に押しつけたまま、社会や家庭のあり方を根底から変えることは回避しようとしてきたのではないのか。
 だから真剣に働きたいと願う女性達は、本当に孤立無援の苦しいたたかいを強いられてきた。子どもが熱を出しても、夫は仕事を休んでくれない、自分の職場もそれで休むなんて許してくれない、保育園は熱のある子を預かってはくれない、・・・・誰も責任を共有してくれない中で、福祉・教育政策の届かないところを一身に引き受け、いま目の前の間に合わないところを間に合わせるために、あるいは自分の健康を犠牲にし、あるいは自分の身銭を切り、あるいは周囲の人に頭を下げ、そしてあるいは自分の夢をあきらめて、それぞれがそれぞれのつじつま合わせをしてきたのである。
 だから、現代のさまざまな社会問題を女性のせいにしてはいけない。むしろ女性達は本当によくやってきていて、それでこれだけですんでいるのだ、と常々私は思っている。社会全体が責任をとらなければならないことを、個人的な努力で支えてきたのだ。
 しかし、もちろんそれにも限界がある。家庭は、一部にほころび始めているかに見える。私達は忙しさに負けて、また男性も自分達に負担がかかるよりはと、あまりにも無防備に商業主義を家庭内に招き入れてしまった。女性と男性が向き合って、新しい家庭のあり方を真剣に模索する前に、である。いま私達は男女が共同して、それぞれの家庭の文化を大切に育て、ひとつひとつの家族の歴史を次世代に伝えていくこと、それに取り組まなければならない。企業も行政も、それをこそバックアップしてほしい。
それにしても残念なのは、社会のしわ寄せをさまざまな形で負わされている女性同士が、ともすれば対立してしまうこと。フルタイムで働く女性、パートで働く主婦、専業主婦、・・・・保育園の保護者会や、学校のPTA等の場で、さまざまな立場の人と知り合う機会があったけれど、ときにそれぞれの間に深い溝を感じることがあった。保育士と働くお母さん達、女性の教師とお母さん達、保護者同士でも仕事をしている人とそうでない人、・・・・利害が対立してしまう場面を何度も見てきた。―仕事がきつくて研修の時間もとれない保育士さん達は、母親達に仕事が休みの日は子どもを休ませてください、と求める。しかし母親達も、日頃オーバーワークでひとりの時間がほしい。フルタイムで働く女性達は、PTAの役員に選ばれても平日昼間の活動には出られなくて気づまりな思いをしなければならない。専業主婦は、いつも自分達が損をしているように感じる。―
 しかし、少し視点を後ろにひいて考えてみれば、見えてくることがある。私達はどの立場にあっても、皆、何かを「奪われて」いるのではないだろうか。ある人は自己実現の機会を奪われているかもしれない。自分の才能を存分に生かし、社会にも貢献する機会を。またある人は時間的余裕を奪われているかもしれない。子ども達とゆっくりふれあい、地域活動にも取り組む時間を。そしてまたある人は経済的安定を、自己の生活に対する決定権を、自立して歩む人生の醍醐味を、・・・・。そしてもしかしたら、他者への思いやりを、・・・・。
 だから私達は、自分達同士で対立するのでなく、立場を越えて手をつなぎあいたい。連帯して「奪うもの」に立ち向かっていきたい。そうしてこそ、「新しい社会と家庭」への展望もひらかれるのではないか。
康 玲子(かん よんじゃ)
主婦。在日朝鮮人(韓国籍)二・五世。
メアリ会(京都・在日朝鮮人保護者有志の会)代表。
一〇年ほど前から、小・中・高校の教職員研修会等で、また児童・生徒対象の人権学習の時間に、在日朝鮮人問題についての講演を続けている。