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東アジアに平和をどう構築するか
EUの拡大
 5月1日、ポーランド、チェコ、ハンガリーなど、旧共産圏の国々を中心に新たに10ヵ国が「ヨーロッパ連合(EU)」に加盟した。冷戦崩壊によって、イデオロギー対立はすでに解消されていたが、東欧の人々は、立ち遅れたままの経済の下、同じ文化圏にありながらも、ヨーロッパ人としての自負心を持てないでいた。それが今回の拡大により、東西ヨーロッパの分断状態はようやく完全終焉したといえる。欧州統合運動の「一つのヨーロッパ」という永年の夢が半世紀を超す綿々たる努力の末、ここにほぼ完成を見たことになる。
 欧州統合の歴史は1951年の「ヨーロッパ石炭・鉄鋼連合(ECSC)」の結成に始まる。それは最初から経済的利害よりも政治的意志によって動かされてきた。戦争の火種であった石炭と鉄鋼の所有権問題を共同管理に移し、戦争の元を断とうとしたのである。
 今回の拡大も二度の世界大戦を経験したヨーロッパ人の平和へのイニシアティブ、「戦争をなくし、平和を守るにはヨーロッパから国境線を無くして、一つになるしかない」という意志が強く作用した結果と見るべきであろう。とかく巨大市場の誕生、競争力強化といった経済面やアメリカに対抗できる勢力の登場といった国際政治面の効果に視線が注がれがちであるが、新規加盟国はいずれも、既加盟国に比して、経済格差の大きい国々である。大規模な財政支援の負担がある上、安い労働力の大量移入による社会的混乱をも覚悟した上での拡大なのである。東欧社会を貧しいままに放置しておいてはいけないという共通理解が成立していることを見逃すことはできない。
 もっとも、トルコの度重なる加盟要請を拒否し続ける態度にはオリエンタリズムの残存も見られる。また、将来におけるヨーロッパ・ナショナリズムの台頭可能性を全否定することもできない。しかし、25ヵ国もある国々が国家主権の一部を自発的に放棄して、平和裏に統合していく姿には人類史の次なるステップを先取りしているヨーロッパ人の見識が感じられ、やはりうらやましい。

東アジア地域協力の現状
 ひるがえって、東アジアの現状はどうなのか。冷戦とは、分断と対立の同意語である。ヨーロッパで冷戦が終わった時、当然、東アジアでも分断を交流へ、対立を協力へと、流れを作り替え、やがてはそれを統合と連帯へと上昇させていく必要性が強く認識されていたといえる。しかし、一言でいえば、東アジアにポスト冷戦はまだ訪れていないといわざるをえない。いまだ20世紀を生きているとしか言いようがないのが現状ではないか。
 まず、分断状況である。分断の象徴的装置を敵対する軍事同盟と外交関係の未修交状態と見た場合、冷戦終結時、東アジアの分断線は、中国と台湾、韓国と朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)という分断国家の内部と、国際的には中国と韓国、日本と朝鮮の間に引かれていた。当然ながら、東アジアの新しい平和構築はこの分断線の撤去から始まる。分断国家内部では互いに平和的共存を承認すること、そして、国家間関係では未修交状況の一掃が何よりの前提である。
 韓中間では、1992年に国交正常化がなされた。以後、両国関係は飛躍的発展があった。南北朝鮮は、2000年の首脳会談を境に、雪解けが始まっている。これらは肯定的に評価することができる。一方、日本と朝鮮の国交正常化交渉は、現在、暗礁に乗り上げている。加えて、台湾独立の動きは中台関係を険悪なものにしている。とはいえ、中台関係は経済的に、いわば持ちつ持たれつの関係にある。日朝の関係正常化が急がれる。外交関係は道半ばの成績に留まる。
 軍事同盟のほうはといえば、朝中同盟と朝露同盟は、急激に弱化されたり廃止されたりした。それに応じて、日米同盟と韓米同盟も少なくとも解体の方向性が見えていなければならない。しかし、こちらは再定義のプロセスを受け、逆に強化された。伝統的な勢力均衡論から見ると、著しい軍事的不均衡が生じたことになり、いつ戦争が起きてもおかしくない緊張状態が続いている。急激な均衡破壊は危険なものである。現に、なりふり構わず、先制攻撃論を振りかざすアメリカと、瀬戸際戦術といって、徹底抗戦論を敷く朝鮮の間には、少なくとも表面的には、今にも戦争に突入しそうな極端な対立が生まれている。軍事面では、この10余年間、緊張緩和どころかむしろ悪化している。
 それにもかかわらず、交流の増大は、もはや滔々と流れる大河の観をなしている。アジアの域内貿易が域外貿易に追い付いたのは1990年である。それまでアジアの人々のアジア認識はどうしても西洋、特にアメリカ認識と背中合わせの感があった。それは、西洋かぶれと国粋主義の往復運動であったり、欧米文化の受容か抵抗かの論争であった。それがようやく、飛躍的に増大した人的、経済的、文化的交流に支えられ、初めて欧米を媒介としない自己認識ができる段階に来ている。アジアはうんと近付いたのである。
 交流の増大は必然的に、共通の課題をどんどん提起して、協力の必要性を高める。しかし、交流の爆発的増加に比べ、協力は大きな遅れを取っているのが現状である。貿易と投資の急増による実体経済の緊密化にもかかわらず、問題発生時の制度的対応策はまったくないと言っていい。1997年、タイで発生した金融危機が東南アジアに伝染し、やがて東北アジアにも及ぶ過程で、アジアはほとんど無策であった。ウォール街の処分待ちであったのである。アジア経済が互いにどれだけ深くリンクされているかを知ったことが唯一の所得であったのかも知れない。その反省から日本ではアジア通貨基金(AMF)構想も提起されたが、アメリカの反対に遭い、断念している。
 交流の増大に見合うほどの協力枠組みが形成されないのは、我々が政治的にも経済的にも分断されている証左である。実際には深くリンクされているにもかかわらず、課題を論議して、実行力をもった決定を生み出す力を備えていない。重要な決定はアメリカとのパイプを通して下されるのが常である。もちろん、ASEAN+3(日中韓)というのもあることはあるが、それは協議機関ではあっても、決定機関とはとても呼べない。
 新たな問題の浮上も見られる。手詰まり感の日本と、逆に自信を深めた中国の間で、アジアにおける覇権争いの素地が生まれている。両国で共通として国家主義が強まっていることはその一つの現れであろう。現在、アジアの域内貿易の半分が対中貿易である。1999年は11%に過ぎなかった。このような中国の恐ろしいくらいの速い成長は、他国にとっては、チャンスであると同時に、恐怖でもある。
 小泉首相の靖国神社参拝問題は、その意味で、非常に象徴的である。参拝問題の以前と異なる点は、中国の反発が首脳の訪問延期などの外交攻勢に留まらず、中国の高速鉄道建設計画から日本の新幹線を排除するといった具体的な実力行使と連係され始めた点である。そして、日本も日本なのは、こうした中国の強い反発にもかかわらず、それを一笑に付して、参拝を繰り返して強行している点である。さらに、日本では「中国ODA卒業論」がにわかに勢いを得ている。お互い、経済制裁のカードをちらつかせ、いまにも「切るぞ」と気合が入っている。
 日中関係は、欧州でいえば仏独関係に比肩できる。EUの歴史は、欧州の両大国、フランスとドイツが旧怨を捨て、大同についたことから始まった。この例からもわかるように、日中両国関係が協力と対立のどちらに重きが置かれるかは、東アジアの将来を決する最大の問題といわざるをえない。EUの仏独関係にも倣って、アメリカによる東アジアの分断を、日中関係が乗り越えられるかどうかが今問われている。
ブッシュのアメリカ・ファシズム国家
 アメリカは今、世界の最強者である。どんなに強いかといえば、国際法や慣例を無視するばかりか破壊しているにもかかわらず、他国は不快感の表明すらままならないのである。イラク人捕虜の虐待という、米国人を含むだれもが認める非道に対しても、日本政府は、屈辱なことに、非難声明の一つもろくに出せない。この怪物を恐れているのである。
 実は、アメリカはすでに世界の最強者などではない。それが今や裸の王様であることは世界が知っているのである。ただ、この怪物のごり押しを止める方策がなかなか見当たらず、戦々恐々としているだけである。猫の首にどうやって鈴をつけるかの問題である。
 アメリカが世界的覇権を維持するためには、経済的優位とともに、ヨーロッパと中東、そして、東アジアというアメリカの利益に直結する三つの戦略的地域において、確固たる軍事的優位の維持・強化が必須となる。それに、イデオロギーや道徳といったソフトパワーがブレンドされた時、世界の頂点に君臨することができる。
 アメリカの繁栄に陰りが見え始めたのは、70年代である。ドル危機とベトナム戦争からの敗退は、パックス・アメリカナの終わりの始まりを告げるものであった。この危機をどう抜け出すか。アメリカは、レーガン政権の下、軍事化を強めた。結局、レーガンは自ら「悪の帝国」と呼んだソ連との軍備競争には勝ったものの、しかし、それは傷だらけの栄光にすぎない。平時というのに、巨大な戦争経済の体質が残り、経済の大きな負担としてのしかかった。過重な軍事費負担がもたらした財政赤字の膨大化と貿易赤字。この双子の赤字は取り返しのつかないところにまで膨れ上がった。アメリカの財政赤字は、日本とイギリス、中国の国債購入でかろうじて穴埋めされている。アメリカは世界一の債務国に転落した。最近、イラク人捕虜への虐待事件に怒ったマレーシアのマハティール前首相が「アラブは米国の銀行から預貯金をすべて引き出すべきである。米国経済を破綻させるのである」と豪語するほどである。アメリカは少なくとも経済的に重病にかかった老大国にすぎない。
 ソ連という敵のいなくなった90年代のアメリカは、その単独覇権を背景に、グローバリゼーションを無理やり推し進める。グローバリゼーションは、貧富の格差と環境破壊、文化の破壊を世界に拡大した。その陰あって、景気は好転したが、アメリカですら利益の享受はウォール街の投機筋に限られた。大衆の窮乏化は一層深まった。石油資本や軍需産業など、伝統産業の不満も大きかった。アメリカが頼られる力はむき出しの軍事力しかないことがはっきりとしてきた。ここに究極の反動が起きる素地があった。
 ブッシュ政権のアメリカは、とりわけ石油産業と軍需産業に代表される独占大資本と軍事主義勢力が結託したファシズム国家である。通商を通して、優雅に資本蓄積ができる競争力などないので、圧倒的な軍事力に物言わせ、略奪と戦争経済の恒常化によってしか自己の再生産ができないところまでに追い込まれている。この反動体制は、国内では愛国主義を掲げ、反対者の言論の自由を奪い、警察国家を築いている。アメリカのデモクラシーは瀕死状態にある。国際的には、国際法の制約を認めず、一方主義的武力を行使している。先制攻撃論と予防戦争論は自らに超国際法的地位を付与した。
 今日の野蛮の定義は、アメリカに敵対することにほかならない。アメリカの価値−それが何なのか、今ほど疑問視された時もないと思うが−が神聖視され、人類がこれに服従した時にのみ平和が保障されることになった。
 まさに、アメリカ帝国の恐るべき世界的独裁体制が築かれようとしている。しかし、この独裁化そのものによって、アメリカはどんどん不安定化している。世界的独裁化に対抗する世界的抵抗が組織されてきている。
 まず、帝国主義同盟の内部から亀裂が生じた。仏独を中心にアメリカの独占的軍政体制に反対の声が上がった。なお、アメリカの裏庭とされたラテンアメリカでは左への旋回が起きている。さらに、反戦平和の世界的連帯はかつてない高揚を示している。決定的なことに、イラクでも占領体制は、イラク民衆の激しい抵抗に遭い、壁にぶつかっている。ファルージャの虐殺と捕虜虐待を境に、国内でも撤収論議が始まった。イラクのベトナム化がますます現実化してきている。一方、赤字財政もとてつもない規模に膨れ上がり、アメリカ経済に重大な負担になってきた。
 今秋の大統領選挙は、アメリカにとって、イラクからの自主的な撤収、さらに戦争国家戦略からの脱皮をかけた最後のチャンスとなるであろう。アメリカ人が自らの手でけりをつけてくれることを願うばかりであるが、それができなければ、強制的な敗退を喫することは必至であろう。
東アジアに進む緊張
 アメリカにとって、戦略的要衝は、ヨーロッパと中東、そして、東アジアの三地域である。アメリカの覇権はこれらの地域で優越な地位を守ることによって維持される。ヨーロッパでは、EUの結束によりアメリカの付け込む余地が最小化されている。逆に中東では、戦争という最大の介入が進行中である。アラブ諸国間の分裂と国民の分裂というアラブに偏在する二重の分断状況がアメリカのあからさまな介入を許している。
 東アジアでは、平和とも戦争とも言えない緊張状態が続いている。朝鮮の核開発問題が最大の懸案となっているが、このような情勢を作ったのは、アメリカの東アジア分割支配戦略にほかならない。戦争国家にとって、最大の脅威は敵がいなくなることである。朝鮮という独裁国家を目下の敵として存続させることで、東アジアの自主的な平和への動きを止める。そして、「備えあれば憂いなし」の論理で、日米同盟と韓米同盟を強化して、東アジアの分断を永久化して、長期的に中国とロシアを牽制するというものである。
 中東とは違って、東アジアは高度に軍事化されている。1994年の第1次核危機の際、クリントンは朝鮮攻撃を検討したが、結局、取りやめた。朝鮮側の全面的反撃に遭った場合、こちらも壊滅的打撃を被ることが避けられなかったのである。中東では、テロの危険性があるものの、石を投げられたり、せいぜい小銃による反撃にすぎないが、東アジアでは、関係国の国際的全面戦に発展する可能性すらあった。逆説的にも、朝鮮側に反撃力が残っていたことで、東アジアに平和、というか、戦争なき状態が保たれたのである。
 戦争という究極の選択肢を失ったクリントンは、一気に窮地へと追い込まれる。そこで、「ジュネーブ枠組み合意」を結び、急場を凌いだ。しかし、この合意の履行は、議会多数派である共和党のタカ派によって、ことごとく邪魔されることになる。クリントンは、同合意を尊重する立場と議会への配慮を優先する立場の板挟み状態になり、少なくとも客観的には合意履行を怠り、朝鮮を枯死させる兵糧攻めに転じたことになる。
 2002年10月、平壌を訪問したケリー特使は、朝鮮がウラン濃縮による核開発を秘密裏に進行させているとして、ジュネーブ合意の事実上の破棄を通告した。朝鮮は、これに対抗して、核不拡散条約(NPT)からの脱退を決め、現在も続く第2次核危機が始まる。
 この第2次核危機の発生について、朝鮮に責任があるという誤解が広まっている。しかし、ジュネーブ合意の規定により凍結されたのは、プルトニウムによる開発である。ウラン濃縮が事実だとしても、これで朝鮮の同合意違反にはならないわけである。もちろん、すべての核兵器開発を禁止した「南北朝鮮非核化共同宣言」(1992)には抵触する可能性がある。しかし、同宣言は文字通り「宣言」にすぎない。道徳的非難ができるだけである。しかも、同宣言が核の平和利用まで禁止しているわけではない。ウラン濃縮が事実の場合でも、それが兵器利用か平和利用かは、核兵器が出来上がるまで知るすべがないのである。だからこそ、ブッシュ政権は六者会談で新たに平和利用も禁止したいと主張しているのである。情報操作が横行しているとしか言いようがない。
 だが、朝鮮は本当に核兵器の開発をしていないのかとすれば、そうでもないようである。アメリカの「先制攻撃辞さず」の脅迫に立ち向かい、朝鮮も核兵器の保有を認めて対抗しているのである。保有の主張が事実だとすれば、ジュネーブ合意の前にすでに保有したことになる。核兵器はないとこれまで主張してきたことから、アメリカだけではなく、東アジアの我々も騙したことになる。
 朝鮮が今になって、保有を「告白」する理由はどこにあるのか。私としては、二つを考えられる。一つはイラクから学んだ教訓である。ブッシュ政権が力を信奉する勢力である限り、一方的な武装解除は戦争を招きかねない。イラク侵略戦争は、大量破壊兵器があるからではなく、ないことが判明したことから起きた。フセインの二の舞は演じないという意志である。二つ目は、保有を認めた以上、当然ながら、その解体が課題となる。これは拉致問題と同じである。疑惑をすべて認め、改革開放へと舵を切りたいということである。もちろん、そのためには安全保障とともに、経済支援も必要だというのである。
 今のところ、アメリカの反応は冷笑的なものである。ブッシュは核兵器容認も示唆した。帰す刀では、核の平和利用も禁止、通常兵器も削減、人権問題の改善など、無理難題をつきつけている。あくまでも朝鮮の全面降伏を求めている。六者会談で、アメリカは建設的な代案をまったく提示しない。
危機の解消
 いずれにせよ、危機は打開しなければならない。ミサイル危機や核危機など、東アジアのこの10余年間は、アメリカ発の危機警報により、交流の拡大にもかかわらず、分断の解消を見ず、危機的状況が継続している。この状況の下、特に日本の急速な国家主義化、軍事化が進められていることは憂慮に値する。
 アメリカに解決の意志がなければ、朝鮮が歩み寄るしかない。朝鮮にはイラクに学ぶよりも、すべてを告白したリビアに学んでもらいたい。アメリカと意地のぶつかり合いをして、仮に成功したとしても、それが何の得になるかを考えてほしい。瀬戸際戦術で勝ち取ったジュネーブ合意は、確かに朝鮮外交の大きな勝利であったはずである。しかし、アメリカはそれを守ったのか。結局、破られたのではないか。アジア隣国の信頼も得られないまま、孤立を深めたのではないか。
 朝鮮はブッシュのアメリカがファシストの国家であることを看過してはいけない。クリントン政権の関心は核問題の解決とNPT体制の維持にあったが、ブッシュ政権は質が違う。核問題を利用して東アジアを永久分断させ、この地域における覇権を強化することに関心があるのである。このまま意地を張ると、結局、朝鮮は核保有国家になるしか選択肢がなくなってしまう。その結果は、改革開放どころか、経済制裁の強化、海上封鎖などによって、国民の義性をさらに強いることになる。中国や韓国といった理解のある国家との関係も断絶され、アメリカによる持続的な軍事的脅威にさらされる。
 朝鮮の指導者は、孤立に追い込まれるなか、夥しい国民の義性を払ってきたことを重大な責任として認識すべきである。そろそろ発想を替えてもいいのではないか。アメリカに危機解消の意志がない以上、そのようなアメリカを相手にしないことである。アメリカの約束を期待するより、それを無視して、アメリカを政治的に無力化することである。そもそもアメリカに安全保障をどうして求めるのか。同時履行などを主張するより、先制して核保有の放棄を宣言すれば、中国や韓国だけではなく、日本もロシアも隣国として協力する用意を表明している。隣国と連帯して、アメリカを孤立させることを発想したらどうか。
 イラク戦争の泥沼化により、ブッシュ政権は困難を極めている。韓国も4月の総選挙によって、国会の地図が完全に変わった。朝鮮にとって、大きな決断を下せる好機である。
東アジアに平和を構築する
 核問題をめぐる六者会談は、現今危機の解消だけではなく、東アジアに平和と繁栄をもたらす出発点になるべきである。協力と連帯による新しい地域秩序の形成に積極的に取り組むべき時期である。
 東アジアに平和を構築する上で、特に日本は猛省しなければならない。歴史問題への責任ある姿勢の欠如は、今日のアジア人同士にはびこる不信感の最たる部分である。たとえば、日朝平壌宣言は、痛切な反省を表明しているものの、植民地支配の法的責任を認めたものではない。なお、朝鮮側も経済協力を得て、日本人拉致問題の責任を棚上げしてもらうことを条件に、歴史とともに、日本による朝鮮人被害者の正当な権利要求をも売り渡したものといわざるをえない。日本人拉致被害者も朝鮮人被害者も権利請求を国家によって放棄させられていい条理はない。平壌宣言の関連部分は無効である。
 日本は、歴史への反省が足りないだけではなく、アジアにおけるアメリカの番犬になり切ろうとしている。去る4月13日、日本を訪問したチェイニー米副大統領は「米日関係は現代史が成し遂げた卓越な成果」と激賞し、「米日同盟は安保条約を乗り越えようとしている。日本はアジア太平洋に留まらない世界的なパートナーである」とした。ファシストに評価されてうれしいことは何もないであろう。
 日本の国際貢献に反対するどころか、私はむしろ、それを強く主張したい。日本にはそれだけの能力があるからである。ただ、日本にはまずドイツに学んでもらいたい。ドイツにできたことが日本にできないことはないであろう。歴史問題にはきちんとけりをつけて、アジア隣国の懸念を払拭し、堂々と国際貢献ができる日本が見たい。
 つぎに、韓国も中国もナショナリズムの過剰な台頭については警戒しなければならない時代になった。それだけ影響力のある国家になったのである。さらに、韓国も中国も歴史の被害者であっただけでもない。たとえば、ベトナム戦争で罪なき人たちを虐殺した韓国がその行為への反省もなく、日本の被害者顔をするのは、滑稽なことである。
 EUのように、たとえばアジア連合(AU)のようなものを必ずしも作る必要はないであろう。ただ、アジアの問題はまずアジア人同士で協力して解決するという姿勢は必要である。他所の国に守ってもらわないといけないという貧弱なアジアではすでにないのである。
嚴敞俊(オム・チャンジュン)
関西国際産業関係研究員。