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インタビュー  小林修さん
加害の歴史を保存し見せることで、本当の国際的な友情・連帯も生まれる
 かつて日本が侵略戦争に突き進んだ歴史を振り返り、過ちをくりかえさないことが非常に重要な時代になっています。戦争末期に大本営移転工事が進められた長野市松代で、かつて「慰安所」だった建物を再建する運動に取り組んでおられる「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会の小林修さんにお話をうかがいました。


松代で「慰安所」に使われた建物。91年に解体された。

―「慰安所」もしくは「慰安所」として使われた建物についてお願いします。
 道なりに木の塀があって、その中に大きな平屋の、長屋みたいな建物があって、そこが「慰安所」として使われました。そこに相当古い松の木がありますが、建て替えにあたって松だけは残されました。私らが来た時には、まだ解体されずに残ってまして、これが間もなく解体されるという話を聞きまして、それで保存運動になったんです。この界隈にはたくさん、ここで働いていた人たちの飯場みたいなのがあったんです。本当の「三角兵舎」ではなくてちょっとした物置みたいなのは今でも残っています。この建物自身は91年に解体されましたけれど、土地そのものは全く変わってなくてこういう木とかは残ったんです。カン・ドッキョンさんという韓国の「慰安婦」にされた女性の方が松代へ来て証言してくださったんです。はっきりと松代とは覚えてなくて、「ま」のつくところだって。日本語も上手で歌も歌ったりしてましたけれど、その方がここへ来まして、あの松だなという感じはされたんですけれど、やはり自分が連れてこられたのが松代だったかはっきりはしませんでした。
 そこで働いた人たちとか「慰安所」へ行ったことのある人の証言があり、ここに四人の朝鮮人の若い女性が連れてこられていたことが明らかになったのです。他の戦地での「慰安所」とは違って一番の前線じゃないものですから、(大本営)工事の労働者やその管理する人、そういう人のためにあるということを名目ではそうなってるわけです。だから結構地元の人たちは、そういう働いていた朝鮮人と親しく話していたという証言もされています。山根昌子さんという壕で働いていた人の娘さんが、象山の反対側の「三角兵舎」に住んでいて、それで証言されて、その方が中心になって、最初はこの解体された建物を引き取るということで、大家さんに頼んだんです。その後、今の建設実行委員会を作って皆でやってきたわけです。
松代大本営移転計画
 松代大本営とは、アジア・太平洋戦争末期、現・長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に、善光寺平一帯に分散して作られた地下軍事施設群のことである。敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うことにより連合国側に「最後の打撃」を与え、「国体護持(天皇を頂点とする国家体制の維持)」などのよりよい和平条件を得ようと考えていた。この決戦の指揮中枢を守るためのシェルターとして松代大本営が計画された。
松代大本営の地下壕には、宮城(皇居)、政府の諸官庁の主要部、日本放送協会海外局(ラジオ)など、天皇制国家を支える中枢機関がまとめて移転する計画だった。
 この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働を強いられた。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていない。
「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会のHPより)
―ここの「慰安所」は誰が利用していたのですか?
 表向きは、朝鮮人が暴動を起こすんじゃないかとか、そういう労務者が暴れては困るということにしてますが、一番は軍隊とかね、そういうそこを指導している人たち、管理している人たちのストレス解消が真実ではないか、と思うんです。どこへ行っても兵隊さんたちとかがやってきたわけで、ここにはそういう人はあんまり必要なかったわけです。建設というのはそういう指導する人はいても、あとの人たちは強制労働ですから、昔の寒さは今と違いますから、ひどい所で働いて、しかも粗食で本当にわずかな物を食べさせられて、長い時間交代で働かされた人たちが、そんな遊びに行ってる暇なんかないわけですよ。歴史を曲げて伝えられていると思いますよ。
松代の「慰安婦」
 大本営工事の関係者のために「慰安所」が作られ、年若い朝鮮人女性たちが「慰安婦」として性的サービスを強要されていた。松代町西条の民家の敷地内にあった建物が借り上げられ、「慰安所」とされた。持ち主の証言によると、開設した一九四四年の秋までに、四人の朝鮮人女性が「慰安婦」として連れてこられた。この建物は本来、工場の娯楽室や蚕室として使われていたものだったが、やってきた警察官に「国策に協力できないのか」と脅され、借り上げられたという。
連れてこられたのはいずれも二〇歳前後の若い女性で、客は日本人や比較的高い地位にいた朝鮮人だったという。関係者の証言では、このうち「金本順子」という日本名をつけられていた女性は、慶尚南道の農村出身で、「役場の人に特殊看護婦になれると言われて」強制的に日本に連れて来られたと語っていたという。日本の敗戦後、女性らは母国へ引き上げていったらしいが、その後の消息は知れない。
この「慰安所」として使われた建物は、一九九一年まで残っていたが、現在は解体され「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会によって保管されている。
「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会のHPより)
―以前は建設に向けての住民の反対運動が強かったようですが。
 社会全体として、日本中のこういう保存運動と逆に、日本の戦争はそんなに悪くなかったんだという運動もでてきました。そういうのを主張する人もいまして、松代の町の中で、何回か住民集会もやったんですよ。反対集会をやって、「こういうものは子どもの教育に悪い」とか、いくつかの理由を挙げて。どんどん人が入ってくると、排気ガスも来るし、静かでなくなるし、ごみを捨てていくとか、いろんな問題があってよくないということで、反対がありました。「慰安所」として使われた建物を残すということを全面に掲げてましたから、それに対しては「慰安なんていうのは子どもの教育に悪い」ということで反対されたというのが一番大きいですよね。
 松代は長野市の中でも古くからの人たちが多いから保守的です。だからあとから来た人たちというのは馴染めないところがあって、どうしても松代の中で新しい活動をすることは難しい面もあります。だけど私たちは住民の皆さんに、歴史上本当に意義のある大切なものを、将来の子どもの子どもまで、保存しておいて良かったというようなものを作るということを説明しようと思って、いろんな写真をもって昔こういうのがありましたよ、この程度の展示をしますということまで説明しようと思っています。
 その後に、こちらの仮展示室に住民の方の目に見えるようにきちんとやろうということで、ここで「慰安所」から大本営の中身から、当時の苦労している方々のことだとか、何でも写真にしまして、毎年ここで展示をやってます。住民の方には、事前に私たちが一軒一軒ちゃんと訪ねてお話しながら案内に回っています。「無料で御招待しますからぜひ見に来てください」と。結構来てくださいましてね、その中身で近所の方は理解を示してくださいました。特別な違和感は今はないです。前に宣伝されたような、住民大会やったようなそんな中身じゃないな、ということで理解されてきていると思います。
 私たちは建設を、反対を押し切ってやるということは誰も考えていません。だから話をしたり見ていただいたり、みんなにある程度わかっていただいてから始めようということでいます。時間はかかりましたけれど少しずつやってる段階です。この隣の家の前に「慰安婦の家建設反対」と赤書きで書いたでっかい看板がはってあったんです。去年やっととってくれました。前は町の何箇所かにありました。


「もうひとつの歴史館・松代」仮展示室概観。

―松代では朝鮮人のことや強制連行、強制労働のことが公然と語られています。
 例えば、象山の壕の未公開部分にも、また舞鶴山の壕の何箇所かにも朝鮮人が書いた手書きの物が残されています。その写真が、象山の壕や地震観測所の中に展示してあります。最初に長野市で地下壕を公開するようになったときには、朝鮮人とか強制労働とかいう言葉を一切使わない案内板が作られました。市民運動とかそういう人たちの中で、ぜひこれは訂正してくれという声が高まりました。当初から観光課の管轄だったんですが観光と言ったって、文化的に大事な跡が保存されていかないということで申請しました。象山の壕の入口の脇に慰霊塔ができたでしょ。そこには以前には、長野市の名で朝鮮人という言葉の入っていない看板があったんです。後で今のように入れていただいたんです。


象山地下壕入り口。

―「もうひとつ」は何を意味しているのですか?
 みんなの思いが深いのは、やはり今の日本の歴史、戦争とか、いろんな歴史の中で日本が加害の、アジアへ侵略していったという加害、強制連行で連れてきたとか、「慰安婦」という形でとか、そういう歴史を隠したい、だからほとんどの教科書もそうだし、住民感情もそうだと思うんです。そうではなくて、「もうひとつ」というのはそうした表に出ただけではない、もう一つの側面を見せる、加害の歴史を保存していきたい。そういう心で「もうひとつ」とやったんです。それでないと本当の国際的な友情・連帯も生まれないですよね。私たちが攻めたという事実だけを隠して、それで手を結びましょうと言ったってそれは嘘になるでしょう。だから今、韓国や朝鮮や中国やね、アジアの人たちはやはり日本の今の総理大臣が靖国に行くだけだって、本当の真実とは違うんだと反対しますよね。私たち自身だって同じで、ヒロシマ・ナガサキのことばかりPRして、加害があったということ、加害の中心地だったということを一つも教えようとしない。歴史も、アジアに向けての言葉もはっきり言ってない、謝罪さえしていない。これが今の状況ですからそれもこの「歴史館」の中でしっかり作っていきたいと思っています。
―現在はどのような活動をされているのですか?
 仮展示室での展示は5月の連休とか、土日で、ホームページでお知らせしています。その他にも「どうしても行きたい」という連絡さえあればいつでもやっています。これからはここの展示も充実させていけると思います。写真や文だけだとわかりにくいから、保存してある板塀とか電球とかを持ってきてパッと見てわかるようなものを少しずつ、昔の「慰安所」に使われていたんですよというようなものを飾ろうかなと話をしています。
 毎年11月には象山地下壕の公開部分の終点で集いをやっています。最初に発破がかけられた11月11日に合わせています。ですが松代の活動は11月になって急にやるというのではなく一年中やってます。それがいいなと思っています。東京・千葉の方が中心でやることは多いんですが講演会やったり、映画やったり。やはり11月をヤマにして、11月は集いの他に旅で一緒に来て松代を見たり、あるいはコンサートやったりね、近辺でやったり、同じ日にやったりしてます。
 この仮展示室は、以前は御茶屋さんがあった建物だったんです。その建物を歴史館の実行委員会のみなさんで購入して自前のものになったわけです。これを最終的に壊して、今保管してある材木を持ってきて、ここに「もうひとつの歴史館」というものを作りたいと思っています。土地も狭いので全く同じものを作ることはできません。半分くらいになってしまうでしょう。少しイメージを残して中を復元したいと考えています。大分資料も整理されてきましたから建設の方向で近づいてはいます。今のみんなの思いは早くこういう歴史館を作って、大勢の人に見ていただきたいという気持ちが強いですね。
 今、世界的にも、自衛隊が海外に出て行くようになって危険だし、誰に聞いても、昔の人たちの話を聞いても戦争への逆戻りではないかと心配している時期ですから、こういう建設計画をもっとみんなに知ってもらって、カンパを集めて少しでも前進させていきたいと思っています。それに自分たち自身も資料を充実させていこうということで進めています。少しずつ建設には近づいてはいますが、まだまだ町との話し合いだとか、総合的に考えて進めて行きたいと考えています。


小林修さん。「もうひとつの歴史館・松代」仮展示室にて。

―行政からの援助とかは考えないんですか?
 今は(象山)地下壕は長野市が公開しています。89年の公開当初から今に至るまで観光課の管轄ですが、今後は国全体の保存ということで動いているみたいですね。「もうひとつの歴史館」の方は、資金も含めて行政には頼らずに市民の力でやっています。行政にすると、将来的に引き取ってくれれば別ですが、そういうことが無い限りはなぜ行政にしないかというと、自分たちだったら今の日本の歴史を正しく伝えられるわけです。ところが行政というのはなんか隠したがる。いくら話し合いましてもそういう点では加害という点を優先しないで日本の方針に基づいた展示になってしまうんではないかと心配するわけです。教科書みたいになるんではないかと。だから語られなかったことを、しかし重要なことを展示したい。そういうことに十分な理解を示すような行政に変わってくれば別ですよ。そういう時代がくることは無いとは言えないですが、今の時点では難しいということです。
(聞き手 編集部員 谷野隆)
「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会
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