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連載「鉄道員のゆうゆう「世界」ひとり旅」
連載・その4「中国の旅」


哈爾浜の道路は広い。自動車も多いが、リヤカーも三輪車も健在。景陽街。

中国の旅は 通算二一日の滞在
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という詩があった。富山県が作成した『環日本海諸国図』(別名・逆さ地図)を見ると、日本海はさながら湖のようで、韃靼(だったん・タタール・間宮)海峡は蝶でも渡れるほどだ。しかしその海峡の向こう側を、ボクはほとんど何も知らない。知らないところは、行ってみたい。見てみたい。
 中国への旅は四回で、旅行日数は三〇日だが、「滞在日数」は二一日となる。
 シベリア鉄道で、ウラジオストックに着いた時(第一回)に、「北朝鮮のツアー」の誘いに乗って調子づいたボクは「満鉄に乗って、大陸から船で帰国できないか」と考えた。それには「ロシアの沿海州から、ソ満国境を越え、中国の哈爾浜(ハルビン)に入る道を捜したい」と旅行社に希望は伝えたが、なんとなくあせる。「このルート開拓に旅の成否がかかっている」から、自らも情報を求めていくつかの旅行社を訪ねた。ある店で相談すると『トーマスクックの時刻表』を持って来た。世界中の列車が出ているというこの本の書名は知っている。書籍の入手経路を聞くと、近くの本屋で入手可能という。市販されているとはうれしい。話もそこそこに『時刻表』を入手した。英語版だが何とかなる。なにしろ鉄道員である。二時間の格闘。「ある!」。ハバロフスクとウラジオストックからの列車が、ウスリースクで合流し、哈爾浜に行く列車が、週二本あるのだ。早速、旅行社にコピーを送付して「確認」を依頼した。「窮すれば通ず」だ。
 〇二年八月、空路、ウラジオストック経由でハバロフスクに飛び、ここから鉄道で「ソ満国境」を越えて綏芬河(すいふんへ)を経由、哈爾浜東駅までは一三五五キロ。そして哈爾浜からは、旧南満州鉄道(満鉄)を、瀋陽を経て大連まで行く、九四四キロの旅の計画ができた。これが初めての中国の旅だ。この旅が実現すると、「ソ満国境」という隘路(あいろ)を過ぎて鉄路はつながり、旅の広がりもよくなる。
 その三週間後、大連〜瀋陽(四〇〇キロ)、瀋陽〜北京(八六五キロ)は、山海関を窓から望み、北京〜天津(一三七キロ)へ、天津からは船(燕京号)で神戸港へ。この旅で初めて、大陸と日本とを「船でつなぐ」ことに成功した。
 三回目は、一一月に北朝鮮訪問(第二回)の往路、天津〜北京(一三七キロ)を経て、北京〜丹東(一一四二キロ)を走り「北朝鮮へ出国」。平壌(ピョンヤン)へ続く鉄橋を渡った。
 〇三年四月には台湾を訪問。台湾で最初に鉄道が敷設された新竹(シンチュー)〜基隆(キールン)間(一〇七キロ)に初めに乗り、折り返して基隆〜高尾(カオション)間(四〇五キロ)を、西海岸を縦断。そこからはバスで最南端の鵞鸞(おーらん)岬へ行く。高尾からは船(飛龍号)に乗って沖縄の那覇に上陸した。
「リレー式の旅を続けたい」ボクには、中国の最初の旅で、哈爾浜と瀋陽を見たことは重要だった。北京と共に交通の要衝にあって、今後も基点になるだろう。瀋陽、大連、北京、天津は、二回訪問しているし、一往復半も乗った区間もあるので、ちょっと話が前後するのは許してほしい。
 中国(満州)と台湾、それに那覇。ボクが関心を持つ「中国」の両側を覗く旅だった。
 これが今回の旅の概要だ。

ハバロフスクで「金正日」氏に出会う
 中国への最初の旅は「ソ満国境越え」だった。
 まず、「シベリア鉄道で到着した」ウラジオストックへ飛んだ。偶然にも空港で、前回、送ってくれたガイドに出会い、「旅のリレー」としては上出来。再び「空の人」となって、二七人乗りのロシア機で、ハバロフスクに着いた。
 街の感覚を知るために街に出て、地図を見ていたら、日本総領事館が目についた。日本を発つ直前に「金正日氏がロシア極東を訪問」を報道していた。恰好の小手試しなので、この際、総領事館を訪問してみた。来意を告げると「翌、八月二二日に出会う可能性がある」との簡素な返事。ボクには、総領事館に行けたことで、地図を見る目に自信がついた。この街には路面電車がある。翌日、わが街を歩くように縦横に散策し、黒竜江沿いの「赤軍博物館」の前で、金正日氏にばったり出会ってしまった。警備は簡素で、路線バスも彼の到着の数分前まで運行している。黒のリムジンが目の前を通過する。マジックガラスで中は見えない。博物館の玄関で降りて握手したのは見えた。距離は一五〇メートル程なので顔はわからない。ハバロフスクは彼の生まれ故郷なのだそうだ。彼は鉄道愛好家だし、ボクは鉄道員。「事情を話せば握手も可能」と思いはしたが、唐突なので自制した。ここはひとつ、一一月に計画中の「北朝鮮への招待状を、金正日氏から貰ったことにしておこう」と、勝手に決めた。
 ハバロフスク駅の一番線には彼の専用列車が停車中。北朝鮮とロシアの国旗が掲げてある。ボクは、両国旗に見送られて「哈爾浜行き」の客車に乗り込んだ。直通運転するのは、ウラジオストック行き列車の、最後尾のこの一両だけなのた。
ソ満国境を 鉄道で越える
 ハバロフスクからウスリースク(ウラジオストックに近い)までは二度目の乗車区間。翌日の日の出ごろに到着。ウラジオストック発の「哈爾浜行きの客車」二両と連結し、編成を整えてソ満国境のグロデコボ駅に向かう。この区間はシベリア鉄道の本線だった時期もあるのに、いまはジーゼル機関車が牽引する単線だ。
 ウスリースクから国境を越えた街、綏芬河までは一一八キロの距離。時刻表によれば午後八時の出発となるから「一五時間?」かけて通過する。「ソ満国境」を通過するのに、まる一日かかることになる。ゆっくり走る列車は「ゆっくり見物せよ」との好意にとらえ、ここは「なりゆき」に身を任せることにする。天文台や「蜂蜜の巣箱」も見えた。
 二時間ほど走った駅で、「荷物を全部持って降りろ」と言う。窓から見ると、四本レールが目に入った。ロシアの広軌(1524mm)から中国の標準軌(1435mm)へ、レールが変わるのだ。ロシア側の国境のグロデコボ駅だ。車庫に入って台車を交換するのだと確信した。列車の車両は、上部の客車と、車輪が付いている台車とは、キングピンという二本のピンだけで支えられている。客車を持ち上げるだけで、台車とは「分離する構造」なのは、鉄道員の常識。「車両全体の交換」なのか、客車はそのままで「台車のみの取替え」なのか、確かめたい。一計を案じて、座席の窓ぎわに、ハバロフスクで買った「トマト二個を、置き忘れ」ておくことにして、ほかの荷物は「忘れもの」がないように持って降りた。車両を交換している間に、出国手続きをするのだろう。列車がいつ出発するか不明なので、待合室で「ただ待つ」のみ。国境通過は三〇人ほど。雨も降ってきた。路程を時刻表と時計で換算を試みるが、やればやるほど混乱して、現地時間さえ解らなくなってしまった。(下の囲み記事参照。)


国境の駅は貨車が集積。機関車の向こうに四本レールがある。クロデコボ駅。

 様子は少しづつわかってきた。待合室は駅の二階にあって、一階に出国審査場があり、そこを通ってホームに出るのだ。時間が来るまで審査の扉は閉まったまま。「トイレのチケット」を売る係員だけがいる。三時間ほども待たされた。まったくの「お役所仕事」で、こんなところは日本と似ている。耳をすますとロシア語、中国語に朝鮮語も混じるが、日本語だけが堪能なボクは「無言の行」だ。警官のような男が近づいてきて「ついて来い」と合図して、駅外の詰所へ連れてゆく。言葉が分からないから、恐れるモノはなにもない。後から考えると「チップを要求」していたようだが、無事終了。ようやく出国審査の扉が開いて手続き開始。出国と税関の審査は厳重で、時間もかかる。人数は三倍ほどに増えた。「駅だけの運び屋がいる」ことは、あとでわかった。が、客の手荷物は多い。客車に乗り込み、席につく。「トマト二個」を発見。「アタリ!」。置き忘れたままに保存されていた。客車もホームも同じだが、車輪だけは、別のレールの上なのだ。「台車のみの取替え」なのだ。「トマトが証明」する、あたりまえの大発見である。
 軽機銃を持ったロシア兵士が二人、最後尾に乗り込んで、列車は峠道を超低速で登る。線路は広軌と標準軌(新幹線と同一)の四本のレールが続く。まわりは鬱蒼とした手つかずの森林地帯で、木の間越しにトラックが走る道路も見える。噴火口の内側を登って行くようで、いつまでも出発した駅のあたりが見える。国境線としては、守りやすい格好の地勢だ。ボクといえば「ソ満国境」、「岡田嘉子(三八年、樺太国境を越え、ソ連に亡命)」とか、東海林太郎の歌「ソリの鈴さえ寂しく響く・・・」など、化石のような記憶が次々と頭をめぐる。
 兵士が中国兵にいつの間にか変わっている。中国への道を進んでいるのが嬉しくなって、『東方紅(トンファンホン)』(毛沢東を称える歌)を口笛で奏でたら、太っちょロシア人の女性車掌に、やさしく厳禁された。
 綏芬河駅に着いた。車内に官憲が乗り込んできて、入国審査と通関手続き。簡潔で完璧な仕事ぶりに見とれる。日本の審査は「形式重視」で、内実は杜撰(ずさん)だ。車内の人が少なくなるので、不思議に思った。発車時間までは車外に出てもよいのだ。出発時間を確認し、車掌と「時計を合わせ」て「国境の街」に出ることにした。三時間はたっぷりある。
 綏芬河は、ビル林立の大都会。広い道路は交通量も多い。看板は中国語はもとよりロシア語、朝鮮語が入り交じっている。露店もあって賑やかだ。
 中華料理を食べたら、四人でも食べきれないほどの量が出てきた。毛沢東と周恩来の模造紙大の壁写真に、中国への入国を実感する。
 列車は綏芬河を定刻に発車。哈爾浜を目指して、速度は上がる。
〔添付記事〕
車内にあった この列車の時刻表をメモしてきました。
列車番号 駅名 着時間 発時間
No 6   ハバロフスク 12時10分
No 6661  ウスリースク 2時10分
No 401 グラデコボ 4時10分 8時47分
No 78 綏芬河(スイフンヘ) 14時55分 19時28分
哈爾浜(ハルビン) 5時46分
一本の列車に、四つの列車番号(原則は一列車一番号)
ロシア国内の列車時刻は、モスクワ時間。中国内は北京時間の表示。
現地時間と、GMT(グリニッジ標準時)の関係は、
モスクワ GMT+ 四時間
北京 GMT+ 八時間
東京 GMT+ 九時間
ハバロフスク周辺 GMT+ 十時間
グロデコボから綏芬河までの距離21km。「ソ満国境」を背にする隣村。
さて、グラデコボから綏芬河までの所要時間をこの表から読み取ることができますか?
ボクは不可能です。
哈爾浜で「偽札発見器」を購入
 朝、哈爾浜東駅に到着。ホテルに入った。哈爾浜は、今日だけの滞在計画だ。現地調達の地図を片手に街に出る。即席で、哈爾浜駅を一周するコースを立案した。ホテルから松花江沿いに出ると、鉄橋が見えたので、まず行ってみる。単線の鉄橋の外側に、二メートル幅の歩行者用の通路が、抱き合わせで付いている。川幅は一キロほどなので渡ってみた。こういう合理的な共存の設計はボク好みだ。
 エンタシスの柱の「東北烈士記念館」は、元日本軍の憲兵隊の跡だという。「ソ連軍侵攻の記念碑」も見た。中国にとってソ連軍は友軍だった。「哈爾浜は亡命ロシア人の街ではなかったか。ソ連軍の進攻が『友軍』だったのかどうか」と考えてしまう。旧関東軍は満蒙開拓団にとっては友軍ではなかった。突飛な着想だが、帰国したら調べてみたい。


哈爾浜駅南側の、紅軍街にある「ソ連軍侵攻の記念碑」。あたりには超高層ビルが多い。

 十日前に完成したという、哈爾浜駅を跨ぐ橋を渡って、駅を上から眺めた。ビザンチン様式の「ロシア正教の聖ソフィア教堂」を見て、「民族英雄李兆麟墓」の公園を散策する。結婚式を終えたカップルが数組、記念写真を撮っていた。日本では見かけない光景だ。中央大街を歩いていたら、ボクのホテルを発見。これで散策コースは完結し、街の概略がわかった気になった。
 改めて中央大街を散策する。歴史を感じさせる建造物も立ち並ぶ。きっと保存政策の対象だろう。少し行くと、テントの架設店舗が並んでいた。数を数えたら店が一四〇もある。今日が土曜日のせいかもしれない。ボクも楽しむことにした。幅二五メートルほどの大通りを、警官がゲートで区切って、車の進入を禁止している。看板には「中央大街歩行街」とある。「歩行者天国」ではない。「天国」は「ほかは地獄」を意味するようで、ボクは嫌いである。「歩行街」とは心地よい。


哈爾浜の「中央大街歩行街」。後方は、20世紀初頭の西欧建築「モダン賓館」。

 店には「なんでもあり」で品数も豊富。楽しい「夜店」の雰囲気だ。売り子は、あの手この手で客引きをする。
「客が、売り子に、モノを売っている?」。目を凝らすと、「行商人」が、動けない「売り子」に、食料品を売り歩いているのだ。そこら中、入り乱れての大騒ぎだ。まあ共存共栄だが、傑作だ。「どこが社会主義やねん!」。中国人は誰も「年季の入った商売人」なのだ。ほんま、笑ってしまった。
 ボクは「偽札発見器」を購入。「紫外線を発する懐中電灯」で「札」に当てると数字が出る仕組み。さっそく所持金でためしてみると、なんと数字が出ないものがある。親切にも店員は「すぐに使え。偽札は手元にあるとトラブルになる」という。しかし自分では受け取らない。当然だ。少し後ろめたさはあるが、忠告に従って早速使った。「偽札」は「偽札」のまま「流通」するのだ。使ってから「残しておけばよかった」と後悔した。流通するのは「偽札」ばかりではない。「みやげ」から、「四人組」といった政治家、「偽満州国」まで、大手を振って、とりあえずは流通してしまう「ふところの深い国」なのだ。「多くの人が百元と認めたものは、百元なのだ」という「魯迅流の経済原則」には一理ある。その後、偽札発見器は、「保存用の偽札」を求めて、活躍している。
中国の「電脳」事情
 ボクのホテルの前に着く。前の広場の噴水に、夕涼みの人がいっぱい。それを目あてに物売りも来ている。松花江は、一九三二年、五七年、九八年に大水害があったとか、その「防洪祈念塔」を中心に、公園になっている。噴水が「ウインナーワルツ」の音楽に合わせて踊っている。夜になってこそ、見えるものもある。こんな噴水は初めて見た。
 哈爾浜東駅で迎えが来なくて困っていた時は、乗車待ちの客から、携帯電話機が三台もボクに差し伸べられたし、大連のホテルでは、「持参の電脳」でLAN接続のインターネットができた。天津に向かう列車内ではDVDを貸し出しており、客は映画を楽しんでいた。
 大連の路面電車は、三経路を全線乗った。乗務員は、ちょっと着飾った私服の女性。路線も延長、新型車両も投入している。一方では日本統治時代の車両も走っていて、ボクには懐かしかった。座席は木製で、料金は、賽銭箱に一元を投入する方法なのだが、定期の客には「財布に入れたままで、スライドすればOK」という、最新の電脳システムとも共存していて、そのちぐはぐさがおもしろかった。


経験的には「路面電車のある街は、しっとりしている」。大連は「日帝時代の車両」も稼働していて、懐かしかった。

「白猫でも黄猫でも、鼠をよく獲る猫がよい猫だ」を、地で行く導入方法だ。中国の電脳事情が見て取れる。
五七年ぶりの「日本語会話」
 哈爾浜の一日に、大いに満足して、翌朝、瀋陽に発つ。伊藤博文の暗殺現場は改装中で近寄れなかった。送迎のガイドは「だれも関心ないよ」と言った。


哈爾浜駅は、鉄道の十字路。1909年、この駅で伊藤博文が「安重根」に暗殺された。

 同席者は、台湾から来た「文化人ツアー客」だった。囲碁の名人や原子力学者が、「先遣的な故国訪問」という様子だった。旅券のいる国内旅行みたいで、ちょうど祖国復帰前の沖縄と似た感じかもしれない。仲間になって、姑娘(クーニャン)という食用の鬼灯(ほおずき)を山盛り食べて、英語と筆談で「プロレスの猪木」などを、わいわいやった。新京で降りた一行は、車内とは、打ってかわって小さくなっていた。
 日本人の女学生を二人見つけた。日本語に飢えていたボクは、会話を求めた。この土地のことをよく勉強していた。えらい。
 席に戻って車窓を見る。延々と続く農作地帯を列車は走る。満蒙開拓団は「無住の荒野を開拓する」と言われて、その気になって入植したら、無住の地ではなく「耕作がなされていた」という可能性は充分にある。
 七〇がらみの紳士が「少し、話をしてもよろしいですか」と話しかけてきた。
「私は、五七年ぶりに日本語で話します。私の日本語は、わかりますか」という。明瞭で、訛りのない日本語。五七年とは、ボクの年齢だ。一瞬、緊張する。想像するに、先程の学生との会話が耳に入っていたようだ。ボクは話を聞きたいので、平静を装って対応したが、実際のところは、よくは覚えていない。
 今はソウルの郊外に住んでいて、元々は韓国の大邱(テグ)出身。九歳の時に哈爾浜に移住して「満州国民」になった。(第二次大)戦後には、そのまま「中国籍」となり、一九九九年に、中国の法律改正によって、子供を連れて「韓国に帰国」したとか。今回は、夫婦で哈爾浜を訪問してきたという。「何も(意識)していないのに、国籍は四回変わった」というから、「日本臣民」であったのかもしれない。淡々とした「語り」を静かに聞く。「日本語の新聞や雑誌は読んできた」というから、かなりのインテリだ。「日本語で会話をするのは、五七年ぶりなので、わかりますか」と何度もいう。応対している、ボクの日本語の方が危うい。
「日本語での会話は、五七年ぶり」という言葉から、すべてを想像するほかはない。子供の頃に強制された日本語を、今度は「五七年間も封じられた」のだ。あの「文化大革命」も経ている。この話の中では、「苦労」という言葉すら、色あせる。せめて「こんな出会い」があったことだけは、記しておきたい。
「よい時代になって、韓国に帰れた」という言葉に、ほっとする。
ホテル・マンは「日本留学」希望
 瀋陽北駅で降りて、駅前のホテルに向かう。明日の汽車のチケットを、フロントで受け取る手筈なのに、切符がない。困っていたら、先程のドアマンが、日本語の通訳を兼ねていて、旅行社に問い合わせてくれた。「持参する」とのことで、安心して散歩に出た。入手した地図で、張作霖と張学良の自宅兼官邸の「張氏帥府」をめざす。
 地図上では近くなのに二時間もかかって日も暮れた。瀋陽は、でかい。「瀋陽故宮博物館」も前を通った。共に開門時間が過ぎていて入れなかったが、不満はない。
 帥府(すいふ)の前はたくさんの人出。太極拳や、音楽に合わせた踊りに余念がない。一メートルもある大筆で、敷石に「大書」の練習している人も多い。どれを覗いても達筆で、行書や楷書の筆運も早い。中にはボクにも読める漢詩もあって、さすが「王羲之の子孫の国」だと感心した。あまりにうまいので「書の撮影」を希望したら、「下手だからだめだ」と言う。代わりに『中日友好 萬世永劫』と書いてくれた。「これこそ記念に!」と訴えたが、やんわりと拒否。慎み深さが気持ちよい。「墨での書」と思い込んでいたら、水だった。中国版アフターファイブは、「金銭不要」で健全だ。
 ホテルに戻ると切符が来ていた。通訳のドアマンを捜してお礼を言う。しばしの雑談。すると「日本に留学する」と言う。「ちょっと待て! 止めとき」よせばいいのに、とっさに口をつく。「日本は、とんでもない国なのだから」と、「留学中止」を説得する。彼は「夢見心地」だ。「まあ、わかる」。この会話が、中国再訪の決め手になった。
 帰国して、この「難題」を友人に相談したら、京都で「外国人留学生に日本語」を教えている友人が「アルバイトニュース、アパート情報、スーパーのチラシを持参して説得材料にする」提案があった。この三つは収入と支出を知る材料で、無料で入手できる。日本の生活が「そんなに甘いものではない」ことを説得できるものだ。ボクも物好きだが、友人とはありがたい。
 九月一八日に、ホテルを再訪すると、すでに彼は辞めていた。電話で話はできた。「留学の準備中」と言う。持参の資料と「周恩来も日本留学の途中で引揚げた例」を手紙に書き、フロントに預けた。あとは、彼の「日本留学の成功」を祈るのみ。
九・一八「忘れること勿れ」
 九月一七日の「平壌宣言」は、再訪の大連のホテルで知った。
 九月一八日は、瀋陽の「九・一八事変博物館」を再訪。「九・一八」は、一九三一年の九月一八日を指す。博物館は柳条湖にあって、関東軍による鉄道線路の爆破事件の現場なのだ。「満州事変」のきっかけとなった謀略である。「柳条湖事件」である。
 この事件の前の二八年には、同じ瀋陽の皇姑屯駅付近の線路が、関東軍の謀略で爆破され、張作霖が爆死している。こちらは「満州某重大事件」という。
 三週間のちの再訪となったが、当日に訪れた意味は大きい。「事件の日」なので、来訪者は多い。前回は見流しだったが、今回は一日かけるつもりで、ゆっくり見学。十五〜六歳の学生グループが、英語で話しかけてきたので、一緒に見て回る。ボクは感想を日本語で言う。すると「英語で言え!」と催促。頭が痛いが、努力してみる。博物館にいて、お互いに伝えたいことがあるのだから、理解はできるし、楽しめた。
 石碑に楽譜が刻まれていた。「義勇軍行進曲」(中国国歌)だった。ボクは曲だけは知っている。口ずさみはじめたら、一人が歌ってくれた。『ビルマの竪琴』が頭をよぎる。「中日友好」を約束して別れた。
 館外に出て、線路沿いの「忘勿国恥の鐘」を見ていたら、「瀋陽日報」の記者にインタビューされた。彼は中国語だけ。ボクは日本語だけだ。では「どうするのだ」と思っていると、携帯電話を取り出して、かけた電話に「出ろ」と合図する。仕掛けはこうだ。記者の連れ合いが、高校時代に日本語を学んでいて、電話を介して彼女が通訳するという次第。よくわかる日本語だった。こんな対話もあるのだね。


瀋陽「九・一八事変博物館」の「忘勿国恥の鐘」。「日本関東軍自行炸毀」が読めた。

 今日は、見学者は多かった。だけど日本人は思ったよりも少ない。この博物館は、中国政府が「日本人のために」、「この事変を忘れないように」建ててくれたのだと、ボクは思う。「日本人よ!『忘れること勿れ』九・一八」。
 時間ができたので、北陵公園に、清朝の太宗「ホンタイジ」の墓を訪ねる。とにかく広い。一番奥の墓のあたりは、城跡のような守りの堅さだった。
天安門で「中秋の名月」
 北京で泊ったホテルには、「京劇」を上演する劇場がある。「孫悟空」を見た。翌日は、通りの名前が「門前」なので、「天安門」だろうと解釈して、天安門へ徒歩で行く。ボクの目的はただ一つ。「四九年の建国の前日に、『統一戦線の合意』によって建国を決議した証拠」を「捜す」ことだった。「建国の正当性を主張する」根拠で、「偽物が流通」する国だけに、どこかにきっとあるはずだ。捜したら、何のことはない「広場のど真ん中」に「人民英雄永垂不朽」の碑があった。その裏に、「政治協商会議」(発足当初は、国民党も参加)の名と、「建国の前日」である「九月三〇日」の日付を見つけた。表の題字は毛沢東、裏の文章は周恩来の筆だという。広場では、今年の「国慶節」の準備をしていたが、人民は凧揚げに興じていた。


天安門広場中央の「人民英雄永垂不朽」の碑。この碑の中に、捜していた「文字」を発見した。

 夕方になって「今日、九月二一日は満月かも知れない」と気づいた。阿倍仲麻呂を気どって「天安門に いでし月かも」を、やるつもりになって、天安門の西側にある、孫文ゆかりの「中山公園」で、「中秋の名月」を待つことにした。こういう思いつきは、いい。天安門広場を往復し、「名月」を見ただけの一日だった。
周恩来は「紀元前」生まれ
 北京〜天津間は三度通った。列車の速度は滅法早い。一三七キロの距離を一時間と一五分〜四〇分でつなぐ。最高時速は一三〇キロを越えた。
 初回の天津は、駅前で大いに戸惑った。皆目見当がつかない。駅前で一時間も立ち尽くす。ボクには珍しい事態だ。少しは歩いてみたが、あまりに解らないのでタクシーに乗った。想像するに、天津には租界があった。租界は、あたかも内臓のように融通無碍に境界線をめぐらす。租界同士は別世界。道路はあるが、一貫性のない「迷路」となる。後々までも禍根を残す。「租界の散歩は要注意」だ。台湾の台北(タイペイ)でもそうだった。台北も「租界」なのか?
 ホテルに着いて、めげることなく街に出た。古い街並みを見つけて、露店を見る。適当に大衆食堂に入ったら、日本人に出合った。同席を求めるとOKがでて、話し込む。日本語教師で、中学生に教えているとか。「赴任してから、初めて出会った日本人だ」と言う。「周恩来の紀念館が近くにあって、今日行ってきた」とのこと。周恩来は天津の出身だったのか。
 一一月の「北朝鮮への旅」の途上、天津に寄って入館した。展示物を見ていくうちに、「紀元前」の文字が目に止まる。「仇同士は目が聡い」というべきか。これを見つけるために「入館した」といってもよい。それは、周恩来の京都帝国大学への「入学願書」だった。彼の誕生日は、なんと「中華民国紀元前一三年」と書いてある。「清国年号は使わない決意」が読めて、改めて感服。結果は「不合格」となったが、もし「合格」していたら、彼の人生も、中国の歴史も変わっていたかもしれない。しばし見とれた。
中国大陸から船で「帰還」をはたす
 天津市塘沽(トングー)に燕京号の波止場がある。「百元ほどなので、タクシーで行くこと」と旅行社から教えられていた。大事なところでは、無理は禁物。タクシーを使った。天津駅から四〇キロは優に走る。同じ市内でも神戸港とは訳が違う。とにかくここは、中国なのだ。巻き尺が違うのだ。
 船中で二泊して神戸港に着いた。実はこの船旅が、ボクの最初の「大陸からの帰国船」なのだ。船旅はよい。一泊すれば、船内がうちとけて交流が始まる。モンゴルあたりの中国奥地に行ってきた学生が多かった。商売をしている人もいる。時間はたっぷりあるので、ゆっくり会話ができる。
 北京の高級ホテルで買い求めた「古代鏡」を鑑定してもらったら、即座に「あ、それ偽物!」「やっぱり!」(一同、爆笑)。「本物」との「ふれこみ」だったし、古色蒼然としていたのに・・・
 黄海は穏やかで、旅の残り香を楽しむ。これが醍醐味。九月二五日。神戸港で入国審査。とうとう船で「本土」に「帰還」したのだ。ポルトガルのロカ岬から、ユーラシア大陸を横断して、はるばる日本までが、「線で結ばれた瞬間」だ。
台湾からも船で帰国
 〇三年四月一日、台湾を訪問。台北の中正機場に着陸した。
 新竹〜基隆、折り返して、基隆〜高尾と、西海岸を一日に二本しかない鈍行に乗った。基隆は田植えの時季で、南下するに従って「稲が、一日で伸びていく」ちょっとした「浦島」気分だった。
 高尾駅前で、「さらに南下しよう」と、バスの便を調べたら、数社が競合している。看板に「空軍一号」とか「総統席」という文字が、やたら目につく。どうも「豪華な座席」を競い合っているのだ。おかげで鵞鸞岬へは、簡単に行けてしまった。
 この岬で、バシー海峡越しに、フィリピン(最初の訪問国)を遠望するが、遠すぎて、当然のこと、見えない。残念。
 鵞鸞岬は、「牡丹社事件」の発生地点と書かれていたが、名称くらいで何も知らない。一八七一年に琉球船がこの海岸で難破し、五四人が原住民に賊首された事件で、明治新政府はこれを口実に台湾を攻めた、と知ったのは帰国してからだった。
 高尾は「清明節」の日だった。一族を引き連れた家長が、街の祠(ほこら)に行列して、先祖の供養をしていた。供え物に「札束」を見かけたので、入手を試みたが、体よく断られた。
 八五階の高層ビルの、七五階の展望台で夜景を楽しんだ。エレベーターは四〇秒の高速運転。振動もなく動くので、硬貨を立てたら、立ったままで地上階に到着した。
 四半世紀前に、沖縄への往来は「飛龍号」だった。当時から台湾航路の船だった。「将来は、ぜひこの船で台湾へ行ってみたい」と思った。なつかしの飛龍号で、久々の那覇に到着。入国審査を受けた。粋なモノだろう。名古屋を経て大阪南港に着いた。
 ボクの「中国の旅の足跡」を地図に描くと、「引っ掻き傷」程度の旅なのだと、改めて思う。でも、とにもかくにも、「しるし」はつけた。中国は広いのだ。
 次回は「英検五級で 四五ヶ国の旅」と題して、「最初の海外旅行」の話や、「旅の心構え」を書く予定です。
                (次号に続く)
杉 勝利(すぎ かつとし) 略歴と旅行の概要
〈プロフィール〉
●勤続39年の鉄道員。
年に一度は二週間の旅行を30年以上継続中。
国内・国外ともに、一人旅が原則。
●国内は、利尻、礼文、根室、小笠原、生月、対馬、座間味、西表、与那国、波照間を含む、1道1都2府43県に足跡。
●訪問国は、フィリピン、オーストラリア、イギリス、フランス、ギリシア、オランダ、デンマーク、スイス、イタリア、エジプト、ドイツ、トルコ、アイルランド、ポルトガルなど、40ヶ国を越える。
〈略歴〉
1945年  8月生まれ。
1964年 18歳 就職
1965年 20歳 広島への初旅行
1970年 25歳 長崎への初旅行
1975年 30歳 沖縄への初旅行
1984年 39歳 東海道を歩く
1987年 42歳 フィリピン(初出国)
1991年までは、フィリピンに7回旅行
1992年からは、諸国歴訪
2002年 56歳 3月からほぼ毎月旅行
2002年 57歳 10月 英検5級合格
〈ここ1年の旅行〉
(1) 東欧 〈ベルリン〜モスクワ〉2002年 3月 8日〜2002年 3月17日 10日間
(2) シベリア鉄道の全線     2002年 6月11日〜2002年 6月25日 15日間
(3) 高麗古墳〈平壌〜開城〉   2002年 7月20日〜2002年 7月24日 5日間
(4) 満鉄  〈ハルビン〜大連〉 2002年 8月20日〜2002年 8月28日  9日間
(5) 燕京  〈大連〜天津〉   2002年 9月17日〜2002年 9月25日  9日間
(6) 北朝鮮 〈新義州〜板門店〉 2002年11月 7日〜2002年11月17日 11日間
(7) 慶州  〈釜山〜慶州〉   2002年12月30日〜2003年 1月 3日  5日間
(8) 南朝鮮 〈ソウル〜釜山〉  2003年 2月26日〜2003年 3月 6日  9日間
(9) 台湾  〈基隆〜高尾〉   2003年 4月 1日〜2003年 4月 9日  9日間
(10) 全球旅行〈世界一周〉    2003年 5月21日〜2003年 6月11日 22日間