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連載「時代の曲がり角で」
第二回 「憲法」が教えてくれた
 私は一九五六年生まれ。
 子どもの頃、世の中にはまだ戦争の記憶が濃厚で、大人達は折にふれて「もったいない。戦争の頃は貴重品やったのに。」とか、「戦争の時にはこんなもの食べられへんかったんよ。」などと話してくれたものだ。
 私は神戸で、公立の小学校に通っていた。学校には、戦中・戦後の苦しい体験を話してくださる先生もいらして、子ども達は、戦争の恐ろしさを心に刻みつけた。
 日本国憲法について初めて勉強したのは、小学校六年生の頃だったろう。さらに中学校でも教わったはずだ。
 小・中学校時代の私は、自分が朝鮮人である、韓国籍であることを周囲に隠し、日本名を使って生活していた。それがどういうことなのかよくわからないながら、自分が日本人でないことは自覚していた。
 だから憲法について学んだ時も、自分は「国民」のなかには入らない、これは私の憲法ではない、ということを意識しないわけにはいかなかった。
 たとえば、憲法が基本的人権を保障しているのは、あくまでも「国民に」対してであった。「すべて国民は、・・・・」と書かれているなかに、私は含まれていない。では、私の基本的人権は誰が保障してくれるのだろう。私にはこれらの権利があるのだろうか。誰に聞くこともできなかった。誰も教えてはくれなかった。
 それでも日本人のふりをして、クラスメートと一緒に授業を受けた。自分の立場は宙を彷徨うようではあったけれど、しかし憲法には何か私を惹きつけるものが確かにあった。
 まず、前文の格調の高さである。子ども心に理想の美しさを感じた。「普遍」という言葉に、たぶん私は、この時初めて出会ったのだ。「普遍」なのだから、朝鮮人である私にも無関係ではないのかもしれないと、希望を持ちもした。
「主権在民」。―「国民主権」と言うと、自分が全く除外されてしまうためか、私の頭の中にはこの言葉で残っている。せめて理念だけは共有したい気持ちがあったのだろう。―あなた達こそが主人公なのだと教えられ、少し得意げな気持ちになった。当然のことだとも思った。しかし、戦前までは天と地とが逆だったことを教えられた。これが人類史の中で幾多の犠牲の上に勝ち取られたものだと知るのは、もっと後のことである。
「基本的人権の尊重」については、疎外感を抱えつつも、私は本当に新鮮な気持ちで授業を聞いた。法の下の平等、思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、そして生存権、・・・・たとえば移転の自由などという、当たり前すぎると思われることも、自由ではない時代があったのだと教えられ、ひとつひとつの自由が、意識的に用い、感謝し、守り続けなければならないものなのだと知った。この時に学んだことが、のちのち、たとえば自分の生き方を大切にする、自分には自由に生きる権利がある、・・・・そんな思いに成長していったのだと思う。
 そして「平和主義」。日本は戦争で、本当にひどい目にあったから、もう二度と戦争をしないと決めた。こうして憲法にちゃんと定めてある。これはすばらしい憲法だ。―そう語る先生は、誇らしげで、聞く子ども達にも、高揚感があった。九条「・・・戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、・・・永久にこれを放棄する。」の「永久に」という言葉は、最高に厳かな響きをもっていた。
 私はうらやましかった。こんな立派な憲法が、私のものではない。
 すばらしい憲法と、疎外された私。―のちに、やはり私達外国人は意図的に排除されたのだと知った。「マッカーサー憲法草案」には「外国人は、法の平等な保護を受ける」という外国人保護条項があったのに、交渉の過程で削除されてしまい、法の下の平等をうたった一四条も「すべての自然人は、その日本国民であると否とを問わず、法律の下に平等にして、・・・・」との原案が、「すべて国民は・・・・」に変わってしまったという。(田中宏『在日外国人 新版』岩波新書)
 しかし子どもの時の私は知らなかったが、たとえ日本国憲法が外国人を除外していても、もちろん私も基本的人権を持って生まれてきたのだ。憲法を学んだときの不安感は、世界人権宣言や国際人権規約、さらには子どもの権利条約を読んだときに解消された。―憲法には、確かにそんな限界、弱さもある。
 平和主義も、「日本は戦争で、本当にひどい目にあったから」というだけでなく、「アジアの人々を本当にひどい目にあわせたから」という意味ももつはずだが、学校の授業等で、先生方からそんな説明を聞くことはなかった。
 羨望と失望―矛盾した思いが交錯する中で、ふりかえってみて私は考える。しかしそんな憲法の限界や弱さを判断する基準も、そもそも私に教えてくれたのは、やはりこの憲法だったのではないか、と。人権を尊ぶこと、世界平和を希求すること、・・・・憲法が教えてくれていたからこそ、私は自分の問題についても考え、また在日朝鮮人の歴史を学んだりもした。遠回りはしたが、自分の人権を大切に思い、日本、朝鮮半島の平和を願うことができるようになった。憲法の精神は、それ自身の制約をも越えて、私に「崇高な理想」を教えてくれたのだ。憲法の不十分な点について吟味するときにも、決してその精神だけは忘れてはいけない、と。
 今、この憲法をめぐって「改正」論議がさかんだ。憲法の精神を大切にし、それを徹底化するためというのなら、理解もできる。しかし、その精神を貶め、ないがしろにするものならば、それはもはや「改正」ではない。―九条を変えることは、憲法の精神を踏みにじることではないだろうか。憲法全体が、軸を失ってたちまちにして崩れてしまう。平和主義は、主権在民や基本的人権の尊重とも直結している。戦争は必ず国家権力を肥大化させ、人々の基本的人権を限りなく奪っていくものだからだ。憲法を現実にあわせるなら、高らかに理想を謳い上げること自体が無意味になる。それにしても私達は、現実を憲法にあわせる努力を、どれほどしてきたと言えるのだろう。
 日本国民ではない私も、同じくこの地に暮らす住民のひとりとして、今はやはりこの憲法を、とても大切なものと考えている。「改正」をかたって憲法が変質させられていくなら、この先、私達の平和も失われていくことになる。なんとしても、それはくい止めたい。参政権を持っていなくても、できることはないものか。
 一番大切なのは無関心にならないこと、だと思う。憲法をめぐるさまざまな議論を面倒と思わないで、しっかり考える。そして、それを表明する、周囲の人に伝える。私達は皆忙しい。日々の生活を回していくのだけに精一杯で、憲法のことを考える暇なんて、と思うこともある。しかし憲法こそ、大事な生活を揺るがす大事である。人まかせにしていては、自由も権利も失ってしまう。私達は「不断の努力によってこれを保持しなければならない。」(一二条)
康 玲子(かん よんじゃ)
主婦。在日朝鮮人(韓国籍)二・五世。
メアリ会(京都・在日朝鮮人保護者有志の会)代表。
一〇年ほど前から、小・中・高校の教職員研修会等で、また児童・生徒対象の人権学習の時間に、在日朝鮮人問題についての講演を続けている。