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「絶対に風化させない」 JCO臨界事故
インタビュー 大泉昭一さんに聞く(臨界事故被害者の会)


手前が大泉さんが被曝した事業所。奥に見える白いビルの下にJCOの事故現場がある。遮るものもなく、わずか120mしか離れていない。

 茨城県東海村にある(株)JCOのMOX燃料加工工場で死者2名、被曝者667名(国による認定数)という日本の原子力史上最悪の臨界事故が発生したのは、今から5年前の1999年9月30日午前10時35分。通常の原子炉とは異なり核兵器用プルトニウムを製造可能な高速炉「常陽」の燃料を製造中のことでした。ところでこの事故の原因について、「死亡した作業員がマニュアル違反のバケツを使ってウラン溶液を混ぜてしまったこと」にあると今も理解している人が多いのではないでしょうか。実際、2003年3月3日、この事故に関する水戸地裁の刑事訴訟では、法人としてのJCOに対して罰金100万円、従業員6名に対して執行猶予付きの有罪判決が出され、その後確定しています。しかし、この裁判の過程では、動力炉・核燃料開発事業団(動燃、現在の核燃料サイクル開発機構)がJCOに対して、自らのコスト削減のために「ウラン溶液の濃度の均一化」という、契約書にない無理で危険な注文をしていたことや、国の安全審査が動燃からの出向者を安全審査官にして極めて杜撰になされていたことなどが明らかにされました。端的に言えば、「バケツを使っていただけなら事故は起こらなかった。むしろ安全でさえあった。」のであり、この重大事故を引き起こした本当の原因は、国・動燃にこそあったのです。それにもかかわらずこの判決は、国や動燃の責任は何ら問うことなく、すべてをJCO、特に臨界についての教育さえも受けていない従業員にのみ負わせるものとなりました。責任を末端に押し付けるこの構図は、原子炉の構造上の欠陥を隠して作業員に責任を負わせた、かのチェルノブイリ事故を彷彿とさせるものです。
 また、JCOはいわゆる「風評被害」による「経済的損失」に対して150億円近くを支払いました。そしてこれらをもって国も動燃もJCOも、事故の「幕引き」を図ったのです。
 しかし、臨界事故以後、深刻な健康被害を周辺住民は訴えてきました。政府の調査ですら、一般人の年間被曝限度を大幅に上回る放射線を非常に短時間の間に多くの住民が受けています。これに対してJCOは一切の責任を認めず、補償に応じようとしていません。「臨界事故被害者の会」の代表である大泉昭一さんは、誠実に対応しないJCOとその親会社である住友金属鉱山を相手取って、2002年9月3日、損害賠償を求めて水戸地裁への提訴に踏み切りました。事故当時、大泉さんと妻の惠子さんは、JCOからわずか120mのところにあって、その間に遮るものは何もない自社の工場で仕事中でした。事故のことを消防から初めて聞いたのは、3時間以上もたった午後1時40分ごろ、さらに避難勧告が出たのは3時40分ごろで、その間きちんとした説明もなされないままに、放射線にさらされ続けたのです。惠子さんにはその日の深夜から酷い下痢が生じ、その後は深刻なPTSDにも苦しむ一方、昭一さんにも約1ヶ月後から皮膚病の悪化が始まり、その後は入院、肺炎の併発や糖尿病の悪化もあり、生死の境をさまようまでに病状は悪化しました。健康被害裁判では、事故の責任について既にウラン加工事業を停止して事実上消滅しているJCOのみならず、親会社の住友金属鉱山を追及するとともに、事故による健康被害について、低線量被曝の影響とともに事故それ自身による精神的ストレスによる被害を訴えています。
 最近はやや回復されておられる大泉昭一さんに、健康被害裁判の経過を含めこの五年間について語っていただきました。
●JCOは事故による健康被害を今も認めようとしていません。
人よりもモノの方が大切なのかと思います。
「風評被害」には148億円も払っているのですから。私たちは事故直後、JCOと月1回くらいの割合で交渉してきました。ところが健康被害については国の見解では事故とは関係ないといって、4ヶ月くらいで終わりにされてしまったんです。ところが、諸先生方にお聞きすると放射線被曝は低線量でも非常に危険性が高いと言われているわけです。あんなに丈夫だった人(妻の恵子さん)が事故の直後から酷い下痢を起こし、胃潰瘍で胃に穴が開き、うつ状態のようになって働くこともできなくなりました。事故の起きた時間にちょうど外でずっとバケツを洗っていたんです。病院に行ってもなかなか良くならず、東邦医大の高橋先生に事故のPTSDの診断を受け、薬を変えてからようやく良くなり始めました。最近になってようやく80%くらいは回復してきたように思います。それでも今もJCOの話はできません。私も事故の後から腕の皮膚病が悪化して水ぶくれがびっちりできて、一時は両手の指を一本ずつ包帯でぐるぐる巻きにしている状態で何もできなくなりました。今も後遺症が残っています。入院したときに肺炎を併発し、3日間意識不明の昏睡状態に陥りました。そうしたせいで、工場の方も閉めざるを得なくなりました。
 私たち以外にも健康被害を訴えて病院にかかっている住民は多いです。しかし、県内の病院はJCOの事故との関係は認めません。毎年4月に県がやる健康診断には300人くらいの方が受けるのですが、「被害者を支援する会」で当日現場でアンケートを書いてもらうんです。未だに、気持ちが悪い、吐き気がする、目まいがする、という方がかなりいるわけです。国やJCOとの交渉のために「臨界事故被害者の会」ができたときには、120〜130人が集まりました。しかし、実名を公表して裁判に訴えたのは私たち夫婦だけです。子どもの結婚など将来のことを考えると、みな被曝の被害を公表できないのです。
●JCOの建物を撤去する話があるようですが。
私は事故を風化させないためにも建物を残すべきだと思います。
この点については村長も同じ考えなのですが、議会は違います。早くなくせと言っている。要するにここの地元では原子力に反対の人はあまりいないんです。これまでは原子力があっても私たちはこわいとも、恐ろしいとも思っていませんでした。原子力は安全だ、共存共栄でいくんだという頭がありましたから。事故のことを初めて聞いたときも動燃だと思いました。目の前に住友金属があるのは知っていても、そこにJCOがあってウラン加工をしているなんて知りませんし、臨界なんていう言葉も知りませんでしたから。
 事故でなくなった2人は病院を転々とされた挙句に対処のしようもありませんでした。つまり事故が起きたら私たちは逃げるしかないということです。形式的な防災訓練をやっていてもどうしようもない。しかし逃げるにしても道路がない。パニック状態になってしまう。これは東海村ばかりでなく、どこの地域でもどうしようもないと思います。


堀の向こうに見える建物が事故のあったJCOの転換試験棟

●提訴されるまで3年間交渉されてきました。その中で最も印象に残っていることはどのようなことでしょうか?
やはり国があまりにも無責任だということが一番です。
科学技術庁や厚生省・労働省(当時)などとも交渉してきましたが、民間企業の問題だからということで何もしてくれません。国の施設ではなく原子力施設ではないから国に法的責任はないというのです。東海村にも厚生省(当時)の役人が一人来ただけです。誰も来ないのです。国は事故のあと「臨界事故対策本部」という「看板」を掲げた以上、最後まで責任はあるはずです。ウラン加工事業についても認可している以上、ある程度の責任は国にもあるはずです。しかし結局、被曝線量調査についての科学技術庁としての通知書を一通もってきただけです。県も毎年健康診断を実施していますがそれだけで、結果に責任をもちません。治療する場合にはかかりつけの病院で自費で受けなければならないのです。
 だからこれからの対応として、原子力関係では行政と住民があらかじめ十分に話し合いをして、大きな事故が起きた場合の責任の所在や対応を決めておくべきだと思います。いつ何時事故が起こるかわかりません。「原子力の安全神話」は崩壊してしまいましたから。事故後どのように対処するのか、そうしたことをあらかじめ決めてはっきりさせておかないと、また同じようなことがくり返されると思います。原子力で泣かない所はありません。むしろ原子力施設はすべて民間にした方が、責任がはっきりしていいのではないかとさえ、思っています。そしてそもそも、原子力に頼るのをやめるべきだと思います。
●裁判はどういう状況なのでしょうか?
これまで8回の公判が開かれました(2004年7月現在)。まだカルテのやり取りをしています。
裁判の争点の一つは責任の所在で、親会社の住友金属は責任を一切認めていません。原子力損害賠償法にもとづいて賠償責任はないというのです。一方、JCOは、事故と健康被害の因果関係を真っ向から否定しています。それどころか、事故によるPTSDの診断をした病院を訴えようとしているのです。内容がいい加減で、これで裁判に負けたら費用を払えと。私たちの弁護士もこんなことは前代未聞だと言っています。自分たちが事故を起こしておいて、通っている患者さんの診断書がおかしいなんて。これに怒った病院側もJCOを訴えるという事態になっています。一体、事故の直後に社長が土下座して住民に謝罪したのは何だったんでしょうか。ふざけるんじゃないと思っています。
 これから裁判でも証人として証言する機会があると思います。そのときにはっきりと訴えたいと思っています。健康被害の苦しみはやはり体験したものにしかわかりません。弁護士の先生にもわかりません。
 おそらくこの裁判は長引くと思います。多くの支援者の方が「臨界事故裁判を支援する会」を作ってくれました。私たちも心強いです。裁判のときも大阪や長崎から「応援に来ました」、といって、私たちも頭の下がる思いです。また、たとえば大阪の阪南中央病院の方々は、のべ八〇人くらいが東海村に来てくださって科学技術庁がやった調査以上のことを調べてくださいました。それによる被曝線量は国のいい加減な調査と七倍も違っていたんです。
 もしこの裁判をやっていなければ、東海村では何事もなかったかのようにこの事故は終わっていたと思います。でも私の目の黒いうちは、絶対にこの事故のことを風化させません。「健康には問題ない」と国もJCOも言っていますが、白黒つけたい。たとえ低線量でも被曝の影響は晩発性ですから何年先に出てくるかわからないのですから。そして私たち自身がこういう状況になってしまったのですから。
 先日も福井県の美浜原発で、4名の死者を含む11名が死傷するという大きな事故がおこりました。原子力でこうした事故がくり返されることに、非常なむなしさを感じます。
(聞き手 編集部員 谷野隆)
臨界事故被害者の裁判を支援する会
連絡先 〒319-1111
茨城県那珂郡東海村舟石川847-19大泉工業(株)内
臨界事故被害者の裁判を支援する会
TEL/FAX 029-282-7117
郵振00190-3-569253
2011年3月26日追記
 裁判は2010年5月に最高裁が上告を退け、敗訴が確定。「臨界事故被害者の会」は解散して、「臨界事故を語り継ぐ会」が立ち上げられました。
 大泉昭一さんは今年(2011年)2月7日、誤嚥性肺炎のため亡くなられました(享年82歳)。ご冥福をお祈りします。(編集部)