HOME雑誌・書籍・店舗第7号目次 > 第7号特集論文
戦争の地獄を体験せずに平和の創造を
講演会「九条の島―読谷村元村長の挑戦」講演録


講演をする山内徳信さん。

 今日、私はいろんな思いを込めてここ京都大学にまいりました。どういうテーマにすればいいか、何度も何度も書き直し、最後に決めたのがこのテーマです。このテーマには私の、戦後生まれた若い人々に対する思いを込めてあるのです。それはなぜかと言いますと、今の若い国会議員のみなさんの中に、法律があれば、国民保護法というのがあれば、沖縄戦のときの沖縄県民の犠牲はもっと防げたじゃないかというような、全く幻想みたいなことを言う国会議員がおるわけです。そして有事法制とか憲法改悪とか教育基本法をなきものにしようという動きがあります。私は軍国主義教育とか皇民化教育を実際に受けてきた者の一人として、今の政治の状況を非常に危機的な状況と見ておりまして、そういう風なものを含めて今回のテーマは、戦後生まれた若いみなさんに、いわゆる戦争の中をやっとの思いで生き残った者の一人としての私からのメッセージにしたい。「戦争の地獄を体験せずに平和の創造」に生き抜いて欲しいとの願いを込めてこのテーマにさせていただいたわけです。
● 憲法との出会い
 私は一九五一年、朝鮮戦争の真っ最中に読谷高校の一年生になりました。読谷高校からは嘉手納飛行場がすぐ目の前に見えるわけです。飛行機が飛び立つその爆音は戦後今日までずっと、近くの中学・高校・小学校の授業その他を破壊し続けているのです。読谷高校に入りましたときに社会科の教科書が配られました。非常に分厚い、文部省発行の「民主主義」というタイトルの教科書でした。そんな時代が日本にあったんです。その教科書の中に憲法が出てきて、その時に初めて日本に憲法が出来たということを私は知りました。そのときの感動は今も忘れられません。憲法の中に主権在民というのが謳われているんですね。だって戦前は天皇陛下に主権があったわけで、国民にはなかったわけです。そして平和主義が憲法前文に書かれております。憲法九条があるわけです。そして基本的人権が国民に保障されると、憲法の三本柱が示されているのです。戦前の日本の社会には主権在民も存在しませんし、平和主義もありませんでした。基本的人権も保障されない。いわゆる現在の社会とは全部逆なんですね。戦争国家だから平和はもちろん無い。若い皆さん方に申し上げたいのですが、生まれたときから今の憲法がある。あるから、これがありがたいということに、これを大事にしようということに気づかない。この国が今再び、平和主義の憲法をなくして戦争国家に向かおうという、そういう政治状況をそのまま進めてはいけない。
●「沖縄の心」とは
 沖縄には「沖縄の心」というのが昔から言い伝えられてきております。これは、琉球王国時代からの、沖縄の政治家たちの一つの島国としての生きる哲学ではなかったかと私は思うのです。何よりも命を大事にせよと、「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」という言葉があるわけです。日本は大国ではありません。南北に細長い、日本列島です。島国という認識が大事です。こういう島国が大国意識をもって、富国強兵で大陸へ大陸へと、戦前過った侵略戦争をやってしまった。その結果はヒロシマ・ナガサキという人類初の原爆を撃ち込まれてしまった。私はこれだけの経済大国になった日本だからこそ、もっと謙虚な、もっと慎重な政治家であって欲しいと思います。大国意識を膨らませて、何でもアメリカと一緒になって、アジアに君臨しようなんて思ったら間違いですね。再び国を滅ぼします。
● 沖縄戦の教訓―軍隊は国民を守らない・守れない―
 私はちょうど沖縄戦のときには小学校の五年生になったところでした。校舎は兵舎に変わっており、昭和十八、十九年になると働ける人々は戦争準備のために動員をかけられるようになりました。学校では朝会(全体集会)がある度に、沖縄から北に向かって深々とお辞儀をする。宮城遥拝といって、皇居に向かって遥拝するわけです。ですから小さいときから全部天皇、天皇。全ては天皇陛下のためにさせられた。同時に皇民化教育と軍国主義教育で、国民のすべてを統一していく。国家統制というものです。アメリカとイギリスのことを鬼・畜生、「鬼畜米英」と言って敵愾心を植えつけた。


読谷村役場の中に立てられた憲法九条の碑

 人権を大事にする教育をすれば戦争で相手を殺せなくなるのです。だから戦前は、日本は一等国、中国・朝鮮だとかアジアの国々を二等国、三等国と教育を通して人権を無視し差別の意識をたたきこんだのです。これはまさにナチスドイツのヒトラーがゲルマン民族、ドイツ民族が優秀だといって、ユダヤ人や他の民族を全部差別しながら潰していったのと全く同じなのです。
 沖縄戦では住民をどんどん巻き込んでいった。戦場という殺し合いの地獄の場におかれたとき人間は、人間性も理性も知性も働かなくなってしまう。だから私は戦争になったとき、地球上の生き物の中で一番獰猛で凶暴となり、凶悪なことをやるのが人間だと思っています。
 そのいくつかを申し上げます。沖縄戦が南部の方にどんどん追い込まれていくと後からやってくる日本兵が、沖縄の人が既に入っている壕にたいして、「君たちは出て行け」と言って壕から追い出して、兵隊が入るのです。「鉄の暴風」と言われ、雨あられのごとく降ってくる銃弾の中に民間人は追い出され、出て行くと同時に撃ち殺されて死んでしまうわけです。
 私たちは読谷村から北部の山の中へ逃げました。馬も避難させていたのです。すると日本軍が「北部から南部の戦場へ弾薬を運ぶからこの馬を貸せ」とこう言うわけです。本当だと思っていますから貸しますとね、一週間、二週間くらい経つと話が伝わってくるのです。日本軍はあの馬を潰して食ったそうだと。米を持っている人がいると「米を寄こせ」と。それに抵抗したり拒否をすると刀をちらつかせるわけです。戦場というのが、戦争というのが、やさしかったはずのお兄さんたち、おじさんたちをそういう状況に追いやってしまうんです。
 壕の中で生まれる赤ちゃんもいる、その前に生まれた赤ちゃんもいる。食う物も無くなっていくと母のおっぱいもあんまり出なくなるのです。お風呂に入れるすべもないわけですよ。赤ちゃんは腹がすいたといって泣く、蒸し暑くて泣くわけですよ。日本軍がこの泣いている赤ちゃんの口をふさげと言うわけです。言われた母親はとても、風呂敷やオシメみたいなもので口をふさぐことは普通はできないのです。そうするとまた「早くふさがんのか」と強迫する。目の前で子どもの命が絶たれていくとき、母親は、あるいは傍にいた家族はどんな思いだったでしょう。
 日本軍の凶暴はもっとある。沖縄の方言を使っている人をスパイとみなすと、軍司令部は文書を出している。戦場でばったり友人や兄弟同士、同じ集落の先輩後輩が会うと、沖縄の方言で喜びを表現した方がいいはずです。ところが方言を使ったゆえをもって処刑されるものも出た。
 戦争体制になると皇民化教育とか軍国主義教育に真面目であればあるほど被害者・犠牲者になるのです。当時の読谷の「チビチリガマ」に避難をしていた人々は八二名、集団で自決をしていきます。アメリカ軍の捕虜には絶対になるな、なるよりは潔く死ねというわけですね。そういう社会が六〇年前の日本の社会なんです。
 その一方で、沖縄戦の中で、慶良間の赤島渡嘉敷島の向かいに前島という小さな島がありますが、日本軍がこの島にきたら島の人は全部アメリカ兵に殺されてしまうと厳しい談判をして、ついに日本軍はその島に駐屯しないわけです。そして実際アメリカ兵が上陸してきたときに、この島には戦闘員は一人もいませんと説明した。日本軍のいないことをアメリカ兵は確かめ、一人も死者を出さなかったんです。戦争が行われなかったわけです。
 私が強調したいのは、戦後世代の若い人々は、この地獄を体験したらいかんのだ、と言うことです。体験してからでは遅いのです。米軍のある従軍記者が、「世界のありったけの地獄を集めたのが沖縄戦である」と言っております。戦争体験者も次第に減っていくのです。だから今こそいろんな体験者との交流を重ねて、体験せずして日本の平和を創造していく、そういう人になっていただきたいと思うのです。戦争になれば軍隊は国民を守らない、守れない。これが沖縄戦の教訓ですね。
 私の同級生も、友人たちも、読谷の地で死んでいきました。沖縄の当時の人口の四人に一人が死んでいった。そういう戦争の中を生き残った者として、私は一九七〇年に「忘れない」というタイトルの詩を書いておいたんです。それは、必ず時間をかけて日本の政治家たちは自衛隊を軍隊にしようと言ってくる時期が来るだろうと思っていたからです。日本の戦後の政治の趨勢を見ても、平和憲法を実質的に良くしていこうという努力よりも、そうじゃない動きをずっとやってきたわけですね。ですから戦争体験のある人々がそれを忘れてはいかんのです。そのために自分への戒めとして詩を書いておいたのです。
 私は日本の憲法は絶対に守りぬきたいという立場におります。それは沖縄戦で死んでいった人々と私との約束事、私は自分であの「忘れない」という詩を通して死者と約束しておるのです。戦後生まれの若い人々、その人々が再び銃をもって殺し殺されるという戦争があってはならない。日本人は二〇世紀でいやというほど十分体験をしたわけです。ですからやはり戦後世代のみなさん方にはそういう戦争体験だけは絶対にさせたくない。
● 読谷村の二一世紀に向けた反基地村づくり闘争
 今日は読谷の話を申し上げて、若い人々に勇気をもって自信をもって頑張って欲しいという、そういうメッセージも送りたいと思います。私は大学を卒業して読谷高校を中心に一七年間勤務した後、読谷村の村長に三九歳で就任しました。そのときに私は青年たちや教え子たちと誓ったんです。この読谷という一つの自治体を民主主義の学校にしようと。人権が大事にされる、村民が安心して暮らしていけるような、そういう村を作ろうと。
 私はそのときに、高校一年のときに感動した憲法を頭の中にずっと叩き込んでおりました。当時読谷村は総面積の七三%が米軍基地なんです。そこの基地の村の村長として、やはりアメリカ軍や日本政府に要求をしていくときの理論の組立の柱を、憲法の平和主義、主権在民、基本的人権におきました。読谷の主人公はアメリカ軍じゃない、読谷村民だ。というのは憲法でちゃんと言われておるわけです。そして村長になってからもう一つくっつけて柱を四つにしたんです。「地方自治の本旨」。地方のことは地方で決めると心の中で誓った。さらに「人間性豊かな環境・文化村を創る」という、村民の合言葉、スローガンを作ったわけです。基地が七三%もあるというのは人間性が豊かになる環境ではないわけです。だから基地をどんどん減らして住民がその土地を使うことがやはり重要である。なぜ文化村という言葉を付け加えてあるかというと、基地の構造を乗り越えていく力を与えてくれるのは文化の構造であると思っているからです。そして沖縄一の陶芸の里を作る、沖縄の織物の拠点を作る、読谷紅芋で和菓子・洋菓子を作っていく。文化というのはそのようなものです。村長は文化村を創ると言っているが、それは銭儲けできるか、と訊いた読谷の先輩がおりました。文化村づくりは、銭儲けもできますよ。同時に村の人々に非常に大きな自信と勇気を与えます。文化は国境を越えますよと。私はいつも例をとって議会でも説明していました。なぜ読谷高校の生徒たちは奈良・京都に行くんですか。奈良・京都まで行って旅費もかかる、ホテルに泊まる、あるいは帰るときは民芸品を買って帰る。これ全部お金が動いているのです。だから読谷村を文化村にする。ちゃんとしたホテルも作ります。今は立派なホテルが二つ建っている。基地の跡に作ることによって反面教師の役割を果たすんですね。ジェット機の射爆場の跡に残波岬ロイヤルホテルが、もう一つは海岸線の方にあった飛行場の跡に日航アリビラというホテルが建った。不発弾処理場も三年間かかって、座り込みを続けて撤去させた。とにかく弱い者が勝つには座り込むしかありません。そしてその跡に今、沖縄一の焼き物の拠点が出来たんです。行政と地域の住民が、議会も含めてやはり本気でいい街を作ろうと、いい村を作ろうといって夢を共有しあったときにすごい力を発揮するんですね。


「やちむんの里」(読谷村の嘉手納弾薬庫跡地につくられた陶器の里)での金城実個展。

 世界のどこにも、基地によって栄えた市町村はありません。基地から解放されたとき、こんなにも変わるのかと、経済効果が出るのかということを、説明申し上げるよりも実際に見てください。ハンビー飛行場というのが北谷町の五八号線の西側、海寄りにあったんです。ここはすごいですね。美浜地域とかアメリカン・ビレッジといってアメリカ村ですよ。若者が殺到している。五八号線もずっと交通渋滞の状況。人を惹きつける力が新しい街にはあるんです。
 ですから私は、読谷村の東の弾薬庫はかなりの面積があるんですが、那覇防衛施設局にはたかだか三億か四億くらいの軍用地料を読谷村に払っていて高飛車なことを言うなと。知恵も発想も無ければ困るでしょうが、明日にでも返されても私はびっくりしません、早く返せと言っていたのです。ここを日本一の菊の花、薔薇の花、ランの花、亜熱帯の花卉園芸の拠点にする。さらに東北地方や北海道あたりの寒い地方のおじいちゃん、おばあちゃんたちに、高齢化社会になっているから、半年間はこの地域で暮らしてもらう。避寒長寿村を作ると言ったんです。寒さを避ける長寿村、冬というのに花が咲いて小鳥がさえずる。そういう風に創造力とか、企画・立案をちゃんとやって、あんた方は三億から五億前後しか払わないが、私は三〇億年収稼ぐと言ったんです。施設局は口を開いてもう何も言わなくなった。
 読谷の青年たちのために農業用のダムを作ったんです。亜熱帯の花卉園芸の拠点形成のために、役場は旱魃のときでも水の手当てができるようにした。そういう風にして基地経済から脱却をして、自立経済を自ら作り上げていかないと、公共工事にいつまでも頼っている時代ではありません。観光産業にも力を入れました。その地域、その国の文化の光を見ることを観光というんです。だから私は京都とか奈良は学生の頃から、神社・仏閣を見るだけでも興奮するんです。それはまさに文化でしょう。読谷村で何を素材にして村づくりをすればいいのか考えました。読谷の焼き物の登り窯にほぼ日本全国から青年たちが勉強にきています。スウェーデンからも、カリフォルニアからも来たんです。そして今、沖縄一のガラス工芸の拠点も読谷にできてます。いつまでも戦争のための基地にぶら下がって生きるんではなく、自立した経済活動を打ち立てる必要があるんですね。


米軍基地内に建てられた読谷村役場。

 私は一九七四年に役場に入って、七五年くらいから二一世紀の村づくりの議論をやるんです。部課長会のときに読谷村の地図を広げて、読谷村の真ん中にある米軍基地のパラシュートの演習場の中に二一世紀の読谷村の行政、教育、スポーツ、福祉関係すべての活動の拠点を打ち立てたい、と言った。それは読谷村民が一番使いやすい便利な所だからです。二人の課長が「村長、そこはアメリカ軍の基地だよ。」と言ったんです。そういう話を今度は議会に持っていってやる。そうすると議会筋からも、そこは不可能だよと。若造の何も行政を知らない村長、とせせら笑いさえ出てくる雰囲気だった。要するに基地の中には何もできないという前提に立っているわけです。私にも実現するかどうかわからない。わからないが、まずやろうというのが大事だと動きはじめた。その論拠を憲法の主権在民においたのです。この土地は読谷村民のものだ、と主人公論を展開した。ですからいよいよ基地の中に、陸上競技場を作る、野球場を作る、と言ったら青年たちは喜ぶじゃないですか。私たちも一緒に闘おうという話になるのです。
 読谷補助飛行場の中にアメリカ軍は通信基地を新たにもう一つ作ろうとしたのです。読谷のおじいさんたちに座り込んでもらい、アンテナ基地反対闘争が三年、四年も続くわけです。沖縄にいる司令官たちを口説いて、さらに横須賀のラッセル提督の所にも行った。座間にも行って交渉するわけです。外務省にはもう来るなと言われるくらい通うわけです。さすがに嘉手納飛行場内にいた、工事担当のアメリカの司令官は根負けして、「最高責任は横須賀にラッセルという提督がいるから、彼が白紙撤回すると言うなら私はいい。」と、こう言ってくれたんです。横須賀に行って交渉したら二ヶ月くらいは工事が中止されるんです。そのとき、私はもう一人会ってない人に気づくんです。まだアメリカの大統領には訴えてなかったなと。翌日一日でジミー・カーターへの手紙を書き終えるんです。工事の進捗状況は六割、日本の全ての政党が現場調査に来て、みんな、「村長、工事がここまで進めば白紙撤回は無理だよ」と。保守も革新もみんなそう言って東京に帰った。あなた方はそう言って東京に帰ればいいが、ここを二一世紀の拠点にしようと思っていた所に基地を作られたら、読谷の村づくりは空中分解する。その後も白紙撤回を求めて闘っていたわけです。そしてジミー・カーターに手紙を出した。そうしますと外交問題、基地問題は外務省や防衛施設庁の専管事項だと彼らは思っていますから、私に対する電話での攻撃はいっぱいあった。私は、私がやったのは自治体外交というものだと反論した。自分たちのことは自分たちで決めて自分たちで実行する。政府が何もやらなければ自治体が自分たち自身でやる以外ないだろうと。外交問題は外務省の専管事項だと言っておるが、国民は口出ししてはいかんということは、憲法のどこに書かれていますか。法律のどこに書かれていますか。国民が物を言ってはいかんとはどこにも書かれていない。外務省は沖縄県民の立場から見ると害のある「害務省」になっている。主権国家の外務省としてやるべきことをやって下さいよ、と痛烈に批判した。
 反基地・村づくり闘争の成果は、基地の中に役場や文化センター、野球場が建つようになった。行政とか議会とか、地域の住民、こういう人々の大半がここに何を作ろう、あるいはこの基地を取り戻そうという共通の夢を持つということが大事なことだと思いますね。不可能と言われていたものが可能となり、非常識とせせら笑われていたものが実現して常識になっていく。安保条約とか地位協定とか基地とかいうものは全部、人間が作った仕組みなんです。人間の作った仕組みは人間の努力によってしか解決できないのです。
● 米軍基地の七五%を沖縄におしつけている醜い日本政府
 醜いという言葉は私の霞ヶ関と永田町に対する一つの憤りでもあるのです。沖縄の面積は日本全体の〇・六%しかありませんし、一三〇万といっても日本の人口の一%にしかあたりません。こんな小さい沖縄に持ちこたえることのできないほどの多くの基地を押し付けているわけです。それでいて、今日まで日本政府は横を向いて沖縄から何十回何百回行っても聞いてくれない。ですから醜いと私は申し上げるんです。
 日本はその主権国家とか独立国家とかいうのは言葉だけで、アメリカの属州・属領のような軍事植民地的な状況ですね。八月一三日に沖縄国際大学に普天間飛行場の大型ヘリが墜落炎上したときの模様は、まさに日本は主権国家ではない。アメリカの言いなりになっているというのを嫌というほど見せつけられた現場の状況ですね。現場から大学当局者まで排除されていく。日本の警察、沖縄の警察も入れない。こんな話がどこにありますか。それでいて、外務大臣とか関係者が沖縄に来て、飛行士は住民地域に落とさずに大学に落とした、操縦がうまかったなんて言うんです。やはり基地問題を少しも解決しないのは日本の政治の責任が大きい。日本の政治家はアメリカの言うことを何でも聞く、猿回しの掌にのっておる小猿みたいな感じさえします。
 安全保障については日本全体の問題ですよね。それが一つの県に七五%も基地が押しつけられている。これは理不尽であり、沖縄への差別である。沖縄だけでは基地問題は解決できない。無条件・全面返還というのはアメリカに帰れということです。沖縄の半分くらいの人だけが、全面返還、全面返還と叫んでいても、本土の人は自分たちとは関係ないと言って横を向いてしまう。そういう人々に私は、あなたの問題ですよと。それを知ってもらうために本土にも基地を移せということを言ったんです。私の理屈は人口比と面積比で行きましょうと言うのです。そうすると、みんな基地問題を身近な問題として感じ始めるのです。そういう風にしたときに沖縄の人も憲法で保障されている人権が保障されることになるのです。沖縄だけに基地を過重に押しつけておくと、いろんな事故・事件が起こるんです。それは想像を絶するような事故が起こっている。基地に抑圧されている沖縄の痛みを日本全国民の痛みとして受け止めてもらわないと解決できない。本土の皆さんもそれが嫌いでしたら、自分の頭の上に降ってくる火の粉は追い払って下さい。本当は沖縄の痛みを本土の人に押しつけていいとは私は思っていません。これは戦略です。戦略と戦術がないと沖縄の基地は動かせないのです。
● 都市型戦闘訓練施設建設反対の闘い
 辺野古に行く途中に金武(きん)町という町があります。そこにはキャンプ・ハンセンという米軍基地があります。この金武町に伊芸区という集落がありまして、そこから二五〇mくらい離れた所に新たな都市型戦闘訓練施設を今建設中なのです。今年の五月頃から、そこの人々がキャンプ・ハンセンのゲートの前に毎朝出かけて行ってプラカードを持って、建設反対の意思表示をして闘っております。一〇年前、ちょうど金武町の反対側の西海岸の恩納村に、「都市型ゲリラ訓練場」を作る工事が始まった。住民の激しい反対運動で潰れました。一〇年間冬眠をしていたのに、今度は目を覚まして東海岸の金武町の伊芸区に作るというわけです。私たちは先月、外務省や防衛施設庁に撤回を求めて交渉に行きました、彼らは「山手に向かって撃ちますから安全だ。」と言う。テーブルに座って安全だと言って何十回沖縄の人を騙すのかと抗議した。かつてこのキャンプ・ハンセンの中で訓練をしていた銃弾が西海岸を走っているタクシーのフロントガラスに当たったことがあるよねと。自動小銃やカービン銃はアメリカ兵が持っている。アメリカ兵はあの山に向かってずっと撃つのか、人間が持っておるから、何年かして慣れてしまったら向きを変えて横に撃たんとも限らんでしょう。そういう危険性があるから住民たちはずっと反対と言っている。これは知事さえもだめだと言っておるのに、それさえも作りませんということを言えないのかと強く迫りました。
● 名護市辺野古沖合の「海上基地」建設反対の闘い
 辺野古の沖合を埋め立てる面積は二三八ヘクタール。そういう大きな面積、ジュゴンの住む辺野古の海を潰し、自然を破壊し、珊瑚を破壊し、地域を分断し、コミュニティの人々を分断して戦争の為の基地を作ろうとしている。辺野古海上基地建設に対する私の基本的な考え方は、一つは天然記念物のジュゴンの棲む豊かな海域でありますから、国際社会はこのジュゴンを保護する責任があります。国も沖縄県も名護市も、ジュゴンの保護のための手段を講ずる責任があるのにそれをしない。ジュゴンの棲む、あるいは海藻、藻場のある所に、今、ボーリングを打ち込もうとしている。それから自然環境の破壊ですね。そして何ゆえに納税者の血税を一兆円前後も使ってこんな基地を作るのか。絶対に許せない。国民がどんなに苦しんでいるか。三万何千名という人が自殺をするくらい追い込まれている時代なのです。万一この飛行場が出来たときに、その基地の銃口はアジアに向けられる。そういう基地が沖縄に、いや日本にできたとき、アジアの国々は緊張しますよ。不安を与えます。二〇世紀の日本人もそうであったが、二一世紀の日本人も結局はアジアに銃口を向ける国民になるのか。そういう不信感が生まれ信用されなくなる。少なくとも戦前の罪の償いも含めてアジアのどの国の人々とも、私たちは仲良く手を取り合って生きていけるような、そういうアジアを作る妨げになるのです。
 そしてここからは私の想像です。海上基地は長さ二五〇〇m、幅七三〇m、そういう巨大な海上の埋立飛行場ができたら、これは周辺の赤土汚染だけではなくて、海は全部死んでしまう。それも私の反対の理由の一つですが、この埋立飛行場に二〇mから五〇mくらいの桟橋をかけますと、いつでもアメリカの原子力潜水艦が横付けできる。あるいは原子力空母が自由自在に、ここは太平洋ですから出入りができる。本島北部には北部弾薬庫というのがありまして、嘉手納弾薬庫と同じように復帰前から、毒ガスがあるとかいろんなNBC兵器があるという風にも言われてきた弾薬庫なんです。その弾薬庫とこの飛行場は一体となります。これに原子力空母・潜水艦が横付けになるようになると、これは極東最大の嘉手納飛行場を追い越して、世界最強のアメリカの戦争のための基地になる。そうなってしまったら日本は永久にアメリカの軍事的な植民地になる。そのことを私は大変心配しているわけです。
 今、現場では座り込みだけではございません。四つの船を出して海上で抵抗をしております。この作業は九月九日から始まってずっと抵抗を続けて阻止行動をとっておりますが、一一月の一六日、一七日、一八日、一九日ですね、那覇防衛施設局は単管といいまして、水道パイプのような物を打ち込んでボーリング調査の準備に入りました。抗議船四隻と、カヌー隊も二〇艇くらい出て闘っております。ところが朝から午後五時までですから、波の上で揺れておりますし、灼熱の太陽の下でやってますから、大変な体力を消耗するわけです。私の印象は子羊に襲いかかるライオンみたいな、そういう力関係でも、正義は我にありで、連日闘っております。一六日、一七日は、平良夏芽君に対して防衛施設局にやとわれた潜水士たち四名が、水中で襲い掛かるようなことがあったり、あるいは水中眼鏡をはずすとか、酸素ボンベを背負ってますから管を抜くとか、そういうことがありました。反対闘争をしている県民会議は、沖縄県と那覇防衛施設局に一九日に抗議にまいりました。「沖縄県はああいう殺人行為に近いようなことを傍観するのか、しないのか返事しろ」と。そしたら「傍観しません」という風に言ってくれたんで、じゃあすぐ来週の作業現場は変わっていなければいけませんよと念を押しました。那覇防衛施設局では、建設企画課長と基地対策室長、その他職員何名かが対応したが、私たちも専門家を連れていく。大学のアセス法に詳しい先生、それから建築・土木関係の専門家。ボーリング調査も環境アセスメントの中に含めるべきだという主張に対し、彼らは含めないという。平行線なんですが、国のやってることは間違ってるから謝罪せよと要求するのですが、それに対して、課長という立場では何とも言えないという。じゃあ二週間の時間を与える、部長とか局長と相談して返事しろと要求した。現場のこの暴力的なことについては、大学の先生と牧師さんがかなり強い言葉で、あんた方は人を殺す気かと迫る。最後は形勢を転換するため強く迫ることにした。やっと雰囲気が変わってきました。「暴力的な行為は当然させません」と言いました。私たちはそういうことが続くんだったらあらゆる手段を講じて対応することを伝えました。陸上の座り込み、海上における必死の闘いが展開されております。
 アメリカのラムズフェルド国防長官が去年の一一月に沖縄にやってきたとき、彼は普天間の基地を見て宜野湾市の真ん中にこんな危険な基地があるとは、と絶句しました。そしてそれの代替基地になる予定地を見て、こんなきれいな海をと。私は既に五月頃、アメリカのブッシュとラムズフェルド、パウエル国務長官宛てと、基地の閉鎖再編関係のアメリカの国会議員やアメリカで今ジュゴン裁判を起してくれている自然保護団体のみなさん方などに、辺野古のおじいちゃん、おばあちゃんの気持ちになって書いた詩がありまして、それを横文字にしまして、送りました。私たち民衆は権力をもってませんから、自分ができる方法でいいから、こっちからもアメリカの大統領にもどんどん、基地を作ったらいけないというメッセージを送ることが大事なことだと思います。
 そして国民ぐるみの闘いの輪が広がっていくことが重要であります。さらに今、タイのバンコクでは国際自然保護連合(IUCN)の国際会議が開催され、ジュゴン保護の再勧告が採択されました。そこの方にも関係者が日本から行っております。アメリカにおいてはジュゴンの裁判も進行中です。そこにも先ほど申し上げたブッシュに送った横文字の散文詩をぜひ法廷で使っていただきたいとお願いしてあります。次第にこの海上基地建設問題は国際的な闘いへと発展してまいります。時代に反するような、県民世論に反するような、平和に反するような米軍基地に反対する国民広範な闘争になりつつあります。
 そして私のもう一つの夢はこれを阻止したときに永田町と霞ヶ関に、民衆の言うことを無視してはもはや日本の政治はとれないという反省が生まれてくるだろうと思います。いろんな問題がある中で、この一番大きな、これを私たちが民衆の力で白紙撤回、あるいは潰すことができれば、日本の政治は必然的に変わらざるを得ない。こういう風に考えているわけでございます。ありがとうございました。
〈二〇〇四年一一月二三日に京都大学で行われた、「米軍基地の撤去を求める会」の講演録をまとめました。〉
山内 徳信(やまうち とくしん)
一九七四年、三九歳で沖縄県読谷村村長に当選し、以後六期二三年、米軍基地の重圧に苦しむ村の首長として、土地返還、基地縮小に尽力した。平和的交渉によって米軍の飛行場に八七年ソフトボール場、九七年三月に役場を築き、基地撤去への道を開こうとした。基地と対峙しながら、同時に日本・米国・アジアを視野に納めた新しい協調の理念を模索し続ける。現在は平和憲法・地方自治問題研究所主宰、「基地の県内移設に反対する県民会議」共同代表。
正誤表:11ページ下段19行目 赤島→渡嘉敷島