(1)数十万人が参加したデモ行進
4月23日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを中心に全国各地で公立大学を守るための大規模なデモ行進が実施されました。
昨年12月に発足した「自由至上主義」を掲げるハビエル・ミレイ政権の下でドラスティックな財政調整策が進む中、いま公立大学の運営側は「予算上の緊急事態」を宣言せざるを得ない事態に直面しています。
このデモは、57の国立大学の学生、卒業生、教職員らが呼びかけたものです。各種報道(航空写真)を見ると、大学生を始め多数の人々が国会から五月広場(大統領府などがある)までの五月大通りを埋め尽くしているのがわかります。またミレイ政権による公立大学への財政支出の実質的な削減に反対する様子が映し出されています。
デモの参加者数は、市当局が15万人、主催者が80万人としています。保守系の「ラ・ナシオン」紙は約43万人(午後5時半から6時半までの1時間の概算)と報じています。
いずれにしてもかなり大規模な抗議行動であり(ミレイ政権下では最大規模と言われる)、首都以外の内陸部の都市でも数万人の抗議活動が行われました。デモの呼びかけには労働組合や野党も参加し、大学教員らは給与の引き上げを求めてストライキを行ったことも報じられました。
ブエノスアイレス大学(UBA)の13学部の本部建物の周辺には多くの参加者の隊列ができ、午後には五月広場に向けて行進しました。
参加者たちは抗議の意味を込めて本を高く掲げたり、「UBAは売り物ではない」、「私たちはUBAを守る」、「教育は権利であり、特権ではない」というプラカードや横断幕を掲げたりしました。
アルゼンチンの公立大学が「予算上の緊急事態」を宣言するに至った背景には、ミレイ政権が今年の大学予算について昨年と同じ支出額にすると決定したことがあります。
アルゼンチンはすさまじいインフレに直面しています。3月の統計発表によると、年率290%近くに達すると報じられています。ですので、名目の支出額が同じだと実質的には大きなマイナスとなり、様々な経費の支払いが賄えなくなる事態に追い込まれることを意味します。ちなみにアルゼンチンの公立大学は授業料の無償化が法令で定められており、政府からの財政支出によって運営が成り立っています。
政府の財政状況ですが、デモ行進前日の4月22日、政府は、第1四半期(今年1月~3月)の財政収支が黒字になったと発表しました。
国内総生産(GDP)比で0.2%の黒字です。3ヵ月連続の黒字達成は実に2008年以来のことで、3月だけで2750億ペソ(約490億円)の黒字でした。
但しこれは様々な反対を押し切って、人員整理(契約職公務員の大量解雇)を行ったり、公共事業の削減を実施するなどの痛みを伴って作られたものです。
こうした財政状況を見越してか、ミレイ大統領は「公共支出による解決を期待してはいけない」とクギを刺す発言をしています。
公立大学の財政に関して、政府は、3月に運営費の支出を70%、5月にも70%、増やすことを決定しました。他にも大学病院向けの特別支出(約144億ペソ)も提示しました。こうした措置によって公立大学の財政をめぐる議論は「解決している」とマヌエル・アドルニ大統領補佐官はコメントしています。
しかしながら大学側は、増額分では昨年来のインフレ分の半分しかカバーできないこと、またこれには教職員の給与が含まれていないことから「合意」を拒否しました。公立大学予算のうち教職員の人件費が占める割合は9割と言われています。
サンルイス国立大学のビクトル・モリニゴ学長は、4段階に分かれている教職員の給与カテゴリーのうち、3つのカテゴリーの給与水準が貧困ラインを下回っているとコメントしています。さらに光熱費が約500%も跳ね上がっており、大学の運営が麻痺する瀬戸際にあることなども報道されています。UBAの学長も、政府の支出額では2~3ヵ月しか活動できず、下半期には運営が維持できなくなると訴えていました。
4月半ば以降、UBA内のいくつかの建物では、「緊急措置の一環」として、エレベーターの使用制限や、図書館の開館時間の制限、共用スペースの照明を消す、お湯の使用量を減らすなどの措置をとっています。また医学部では照明を半分にし、エレベーターの使用も身体の不自由な人に限定するなどの事態になっていると報じられています。
ミレイ大統領は、「(公立大学が)不透明なビジネスを行い、思想を吹き込むために利用されている」との投稿をXに書き込むなど、資金の使途の透明性と教育の質を問題にして研究機関への監査を要求しています。その一方で、「政府は国立大学を閉鎖する意図を一度も示唆したことはない。」と自らを正当化する発言もしています。
(2)公立大学を守るべき意義
約4700万人の人口のうち、ほぼ半数が貧困ラインにいると言われているアルゼンチンの中で、学生の8割が公立大学を選択し、約220万人が公立大学で学んでいる(大学院を含む)と報じられています。中でもUBAは、国内だけでなくラテンアメリカで最も権威があるトップクラスの大学と評価されてきました。
1821年に設立されたUBAは、これまでに16名のアルゼンチン大統領と5名のノーベル賞受賞者を輩出してきました。また授業料の無償化と質の高い教育内容に魅力を感じた国外からの留学生を多く受入れてきた大学でもあります。
言わばUBAは同国の公教育の歴史的“シンボル”であり、その特徴は以下のようなものです(24年4月24日付BBC配信記事より)。
1つ目が学費は原則無料であることです。アルゼンチンの他の公立大学も同じですが、UBAは、フアン・ドミンゴ・ペロン大統領(当時)が高等教育への資金提供は国が担うと規定した法令の中で約束した1949年から無償となりました。
それ以前は、大学に進学できたのは、言うまでもなく高額な学費を支払うことのできた富裕層のみでした。
政府のデータによると、大学入学金の廃止により入学者数は急増。1949年の6万6千人強から1954年の約13万6千人へと2倍強に達しました。しかし1955年のクーデターから70年代初めまでは授業料の徴収が行われるようになり、73年にペロン派政権の復権に伴い無償化も復活しました。しかし再び軍事独裁政権期(1976年~83年)に中断されますが、民政移管とともに回復して、現在では高等教育法の条文に規定されています。
2つ目が「教育の評判のよさ(質の高さ)」です。先述のとおり、アルゼンチンはラテンアメリカで最も多くのノーベル賞受賞者(5名)を擁しており、全員がUBAの関係者です。
ノーベル平和賞が2名:カルロス・サアベドラ・ラマス(1936年)とアドルフォ・ペレス・エスキベル(1980年)。医学分野が2名:バーナード・アルバート・ウッセイ(ベルナルド・ウサイとも)(1947年)とセーサル・ミルスタイン(1984年)。化学分野が1名:ルイ・フェデリコ・ルロワール(1970年)。
UBAには13の学部があり、80以上の学部コースで授業が行われています。ビジネスも含めた様々な分野で「優秀な人材」を輩出していると言われています。ちなみに、医学部には、エルネスト・ゲバラ(チェ・ゲバラ)も在籍していました。
3つ目が「留学生の多さ」です。ユネスコのデータによると、アルゼンチンはこの地域で他国からの学生数が最も多い国とされています。
その理由は先の2つの特徴にあります。UBAの在籍学生数 (38万5千人超。※公立大学には定員枠が設けられていない)のうち、学部プログラム(留学生も無償)を学ぶ留学生の割合は9.5%、全国平均の2倍、大学院コース(学費は有償)ではその割合は16.5%と報じられています。
留学生の多くは、ペルー、ブラジル、パラグアイ、ベネズエラ、コロンビア、チリ、エクアドルなどの南米諸国から来ています。
経済的な条件以外に入学試験や国籍による差別がないこと、一時滞在者としての書類取得が比較的容易なことから、働きながら学べる点も大きな利点となっているようです。
入試がない代わりに、共通基礎課程(CBC)というシステム(6つの科目で構成される。期間は1年間)に登録してこれに合格することが必須となっています(このシステムは1985年から導入)。
なかでも医学部は人気が高く、6つの大学病院を管理運営していて、教育・研究・診療が行われています。
今回の抗議行動に学生など関係者のみならず多くの市民が参加したのは、大学の財政危機だけでなく、「アルゼンチンの未来と、優れた教育を受けることができる多くの世代を守る」といった歴史的意義が意識されているからと言われています。「私たちは、公立大学を消滅させた世代にはならない。」というのが参加者に共通する想いだと言えます。
その後、5月15日にUBAの上級評議会(学長、学部長、各学部の代表5名から構成。代表には教授、卒業生、学生も含む)は、4月10日に宣言した「予算上の緊急事態」の一時停止を決議しました。これは政府の財政支出の増額を再評価したものです。しかし他の公立大学は、給与引き上げも含めた経費の増額を求めており、引き続き「緊急事態」を訴えています。(5月25日脱稿)
2024年5月31日 西尾幸治(アジェンダ編集員)
©2024アジェンダ・プロジェクト